「正念場」
あけましておめでとうございます。
我が家の道路からは北に富士山が見通せます。元旦の朝に、まず富士山を仰ぐのをその年のスタートの恒例行事としています。自宅を今の場所に選んだのも、富士山が見渡せ、また西には駿河湾を見渡せる環境が気に入ったためです。
以前勤務していたトヨタ自動車東富士研究所もまた、富士山のまさに裾野にあり、執務フロアーから途中に遮る建物もなく間近に富士山の頂上まで見渡すことができました。
今日は私がこの東富士研究所でマスキー対策クリーンエンジン開発プロジェクトを担当していた時代、1970年代初頭のいまから約40年ほど前の正月のエピソードを取り上げてみます。
正月休みあけの初日、東富士研究所では部員全員のミーティングが開かれ部長からの挨拶とその時の会社方針、部方針の説明があります。その当時、その全員集会の会場に何年か掲げられていたのが、当時の達筆な部長が墨痕あざやかに書かれた『正念場』の檄文です。
今では死語になりかかっている『正念場』という言葉ですが、語源由来辞典で調べると、意味としては、「ここぞという大切な場面」「真価を問われる大事な場面」と書かれています。
「正念」とは仏教語で、悟りにいたるまでの基本的な心得の一つで、雑念を払い仏道に思い念ずることで、字の通り「正しい心」「正気」が最も必要な場面を「正念場」というようになったと書かれています。
マスキー法は環境自動車普及への最初の「正念場」
当時はまさに世界中の自動車エンジニアは正念場を迎えていました。排気ガス中の大気汚染物質である一酸化炭素、ガソリンの燃え残り成分の未燃炭化水素、高温の燃焼で生成される窒素酸化物をエンジンから排出素濃度の十分の一以下にすることを求める、通称マスキー法、米国大気浄化法に適合するクルマの開発のまっただ中です。
私が担当していた、排ガス触媒を使う方式では、耐久試験では当時やっと使えることとなった無鉛ガソリンを使ってもあっという間に触媒劣化をおこしどんどんエミッションが悪くなり、さらに途中で点火プラグの摩耗、点火系の故障、キャブの不調などが起きると肝心のその触媒が溶けてしまう不具合の多発、実用の見通しをつけることはなかなかできない状態でした。
そんな中で、ホンダがCVCCエンジンを引っさげてアメリカ環境保護庁EPAで排ガス試験を受け、マスキー法クリアが大々的に取り上げられた年の正月全員集合での「正念場」が特に印象が深く残っています。
われわれ触媒コンバーター方式の開発チームはまさに今年こそ「正念場」との思いを強くしていたことを思い出します。触媒そのものの改良だけではなく、燃料中の微量な鉛をさらに減らすことを燃料会社にお願いし、失火がおこらないように、プラグ、点火分配器、イグナイター、燃料供給の信頼性向上に取り組み少しずつ耐久距離をのばしていきました。
いつ「正念場」の檄文が掲げられなくなったか記憶ははっきりしませんが、マスキー対策の本命として触媒方式が選ばれ、さらに触媒方式の中でも排ガス中の大気汚染三成分を同時にクリーンにする三元触媒がいわゆるデファクトとなっていきました。最初に話題となったCVCC方式はまもなくホンダのクルマからも消えていきました。
今振り返るとこの「正念場」を意識したのは、トヨタだけではなく、日本の全ての自動車メーカーエンジニアの心境であり、悟りにむかってとは言いませんが、まさに「正しい心」「正気」を研ぎすまして開発に集中していたのではないでしょうか?この「正念場」での集中が、その後の日本勢の発展に繋がるターニングポイントだったと思います。
環境と経済を両立させるための「正念場」
違う意味で今、人類、その世界、日本は「正念場」を迎えているように思います。人類の「正念場」は人類自身が作り出した環境問題、気候変動問題です。昨年秋に発表された気候変動に関する政府間パネルの5次レポートでは、このところの異常気象について、これまでのレポートよりも一段強い表現で、この原因が人為的な温暖化ガス排出によるものと断じています。
未だに削減に向けての国際合意はできていませんが、人類の未来にとって「正念場」、早急な合意形成と削減への取り組みが急務です。とはいえ、世界の経済を無視しての削減への取り組みは、現実的ではありません。今の世界の人口71億5675万8000人(1月2日13:25時点)人が生き続けるためにも、エネルギーが必要であり、それを供給している圧倒的部分は化石燃料です。製造業、サービス業どころか、漁業、水産、林産業を支えているのも化石エネルギーです。この化石燃料消費の削減と人類が生きていくための経済発展をどうやって両立させるかの「正念場」を迎えています。
日本は、東日本大震災からの復興、この大震災が日本人の「正気」を覚醒さえた次の再震災への備え、いよいよ加速する高齢化と少子化の中での経済成長と環境保全の両立です。アベノミクスで日本経済が久方ぶりに活気をとりもどしつつあります。しかし、まだまだ企業、市民の隅々まで行き渡った景気回復ではありません。ここで本格的な経済浮揚につなげないとこの世紀、少なくとも前半期での日本復活のチャンスを逃しかねません。この経済発展なしには、日本人を養う化石燃料輸入をまかなう稼ぎはできなくなります。さらに日本が存在していく基盤となる省エネ、新エネ、低カーボン技術、そのもの作り技術を磨くためにも経済発展は不可欠です。日本の復興、復活、それを牽引する経済成長と化石燃料消費削減を両立させていくための「正念場」だと思います。
低燃費、低CO2を目指す次世代自動車も、そのコアの電動化、ハイブリッドとそれをリードする日本勢にとっても「正念場」、マスキー対策と同様、今年をターニングポイントになり次の飛躍向かって欲しいものです。