GM再建にまつわるGMとの思い出

米政府のGM株売却で再建に一区切り

12月9日に米政府は、リーマンショック後に経営破綻したGMを救済する為の政府資金投入の担保として取得した株式を、その再建が軌道に乗ったため全て売却したと発表しました。

しかしながら株式売却をしても、再生GMの株価低迷のため回収できなかった政府資金は1兆円となるとの報道も紙面を彩っていました。一方でミシガン州のNPO自動車研究センターは同日、このGM救済などの自動車産業救済により、大規模な連鎖倒産を防ぎ263万人もの雇用維持ができ、この所得税税収を考慮にいれるとこの損失分を大きく上回る効果をあげ、米国経済史上最も効果の高かった政府介入だったとのレポートを発表しています。
http://www.cargroup.org/?module=Publications&event=View&pubID=102

確かに、当時GMやクライスラーが消滅したとすると、このレポートにあるように、裾野の広い自動車産業としてはその影響は図り知れず、米国だけではなく世界の経済にもっと深刻な影響を及ぼした可能性は高いように感じます。

またこのタイミングで発表されたメアリー・バーラ氏のCEO就任も、自動車会社大手としては世界初の女性CEO誕生として話題になっています。彼女は生え抜きのGMプロパーで、GM中堅幹部には多い社内の技術者養成学校GM Instituteの出身、電気工学専攻のエンジニアがキャリアの出発点だったようです。

その後GM内でキャリアを重ね、スタンフォード大でMBAを取得、CEO就任前はグローバル本社の人事担当上級副社長として再生GMトップのアカーソンCEOの片腕として組織改革に腕を振るったようです。この女性GMが再生なったGMをどのような方向に導いていくのか、その中でも私がライフワークとして注目する『次世代自動車』への変革をどのように進めていくのか非常に注目しています。

ビッグ3が牽引したクリーン自動車技術

私の自動車エンジニア人生を通して、今では死語になりかかっていますが米国ビッグ3の動きには注目を払ってきました。入社してほどなく、通称マスキー法、米国の大気浄化法対応の排ガス対策プロジェクト担当になり、自動車の排ガス処理として排気ガス浄化触媒を使いこなすことが与えられた私のテーマでした。

この時からビッグ3、そのなかでもGM、Fordのアプローチが我々のお手本でした。この排ガス対策からエンジン電子制御が導入されるようになり、今では現代の自動車には欠かせないマイクロコンピュータ制御もまたGM、Fordが先鞭を切っています。1975年当時、燃料噴射エンジンの研究開発担当の新米係長だった私はGM、Fordのエンジンデジタル制御開発中との新聞記事を見かけ、スタッフたちにこれを紹介し、その可能性を議論したことがマイコン制御に手を染めるスタートでした。

秋葉原にマイコンキットを買いに出張してもらい、そのマイコンキットの勉強会を開き、そこから自作で燃料噴射と点火時期制御用コンピューターを作りクルマを走らせたのがトヨタとしてのエンジンマイコン制御の始まりです。その後、日本勢は排ガス対策にもまた低燃費や出力向上にもメリットがある燃料噴射エンジンとその制御系のデジタル化(マイコン化)を急速に進めました。

一方ビッグ3は当初のコスト高を嫌って従来型の燃料供給装置であったキャブレターにこだわり、また燃料噴射も日本勢のシリンダー毎に噴射弁を設ける気筒噴射方式に対し、キャブの替わりに一本の噴射弁で燃料を供給するシングルポイント方式に主力を置く時期が続きました。これが、技術面としては日本勢がビッグ3をキャッチアップした切掛けになったように思います。一気筒4バルブエンジン、過給エンジンなど出力競争もまたこの噴射エンジンとマイコン化が支えました。

とはいえ、1990年代に入ってもビッグ3、特にGM、Fordはわれわれから見ると強大で、世界の自動車をリードする盟主でした。1980年代後半から強まった米国カリフォルニア州の排ガス規制強化の動きに対しても、その背景、規制動向、試験法などの技術面の動きは米国自動車技術会活動などを通し知り合ったGM、Fordのスタッフとの意見交換が絶好の情報収集機会でした。さらに、その委員会活動を通じて、試験法づくりのデータ収集や共同実験、さらには規制当局への提案書づくりなどルールメーキング活動へも積極的に参加するようになりました。

もちろん、この活動をリードしたのはビッグ3のスタッフたちでした。私は、低エミッション車開発リーダーとして、日本でこのビッグ3との交流、ルールメーキング活動を支援、年に何回かは情報交換とルールメーキング活動の相談のため米国に出張し、GM、Ford本社に担当スタッフを訪ねたものです。ハイブリッド開発担当になってからも、この繋がりは続き、新聞でも報道されたGMやFordとのハイブリッドや水素燃料電池自動車技術アライアンスの協議にも加わったこともあり、その交流は続きました。今日はその交流の経験から、ビッグ3、その中でもGMとのエピソードの一部をご紹介したいと思います。

自動車界の中心だったGM本社

私が最初にGM本社を訪ねたのは、確か1991年だったと思います。その前年に、カリフォルニア州からそれまでのマスキー規制よりはるかに厳しい低エミッション車規制、LEV(Low Emission Vehicle:低エミッション車)と触媒や排気ガスセンサーなど、排気浄化装置の故障を車載の制御用コンピューターで診断し故障時にはアラームを点灯する車載故障診断システム規制強化(OBD:On Board Diagnosis)が決まり、その規制方法、試験法についての意見交換を行うためでした。

当時のGM本社は、デトロイトのダウンタウンにあり、1980年代のベストセラー『晴れた日にはGMが見える』で表現された14階建ての同じ格好のビル4棟で構成されていました。日本勢の現地生産拡大の影響もあり、デトロイト地区の乗用車工場が閉鎖に追い込まれ、またダウンタウン地区からホワイトカラー従業員が郊外に脱出、今のデトロイト市の破綻に結びつく治安悪化が進行していた時期です。綺麗なのはGM本社の一角だけ、それを抜けると昼間から怪しげな人達が屯する治安の悪いゴーストタウンのような街を急いで通りぬけた記憶があります。

GM本社ビル内は別世界で、中心部が吹き抜け構造となっており、その周りにガラス張りの回廊があり各階の人の動きが見渡せ、その外側に会議室や執務室、幹部の個室が配置されていました。最上階14階がトップの執務スペースで、そこには入れませんでしたが、面会相手の背の高いすらっとした女性秘書の案内で面会相手の個室まで案内され、役員ですら大部屋が当たり前のトヨタとの大きな違いを感じました。

かつては「GMに良いことはアメリカにとって良いこと」と言われた時期もありましたが、当時のGMのエンジニアにも自分たちが自動車をリードしてきたとの強い自負をもった人たちが多く、GMよりも自動車の将来、環境保全の将来が大切と切り出すシニアエンジニアとの出会いに啓発されたのもこの時期でした。こうしたGM、Fordスタッフのコミュニケーションを通じ、遠い存在であったビッグ3の背中が正直確実に近づいてきたことを感じ始めたのもこの時期の印象です。

その後1996年に、1923年に建設されたその本社ビルから、少し南にあるデトロイトリバー沿いの再開発地区にたてられた高層ビルに本社を移転させました。GMが資本参加していた、ホテルのマリオットチェーンが経営するルネッサンスホテルもその一角を占めることから、ルネッサンスセンターともいわれるビルです。

このルネッサンスセンターの本社は、北米オートショー(デトロイトモーターショー)や米国SAE(自動車技術会)年次総会が開かれるコンベンションセンター、通称コボホールの建物の中も通る再開発時に作られたピープルムーバ―と名付けられたモノレールで結ばれており、SAE会場からピープルムーバ―を使ってGM本社を訪ねた記憶もあります。この時も、役員会議室の豪華さに驚かされたものです。

経済の世界では高層の本社ビルを建てた会社は傾くとよく言われますが、まさに言葉のとおり破産に至ってしまいました。いまは、この本社機能をGMの主力研究開発拠点を持つデトロイト北部のワーレン市(Warren)に移そうとの構想がるようです。またそうなると、財政破綻をおこし最悪の状況にあるデトロイト市にとっては大きな痛手との報道もあります。

GMに技術はあった

GMの破産は、短期の収益を重視するあまり、将来技術開発、特に環境技術開発を軽視したつけと言われています。1990年から2005年トヨタを退職するまで25年のデトロイトGM通いとその付き合いの経験からは、決して将来技術開発、環境技術開発を軽視したとの印象は受けませんでした。まだマイコンなるものが生まれてまもない時期にすでにエンジンマイコン制御の開発をスタートさせていたことに驚かされたのは大昔としても、1990年代初めの量産型電気自動車『EV1』の開発からプラグインハイブリッド車『VOLT』、さらに燃料自動車開発まで、こちらがうらやましくなるような豊富な研究開発陣容と設備、それぞれ課長クラスでも広い個室をもつオフィスが与えられ、さまざまな分野で手広く技術開発を続けていました。

『VOLT』の母体となったレンジエクステンダー型ハイブリッドも1990年初めには加州ZEV規制提案時にはすでに開発に着手していました。プリウスの発売後にGMとハイブリッド共同開発の話が出て、デトロイト本社の少し北、ワーレン市にある技術センターなどでGM開発スタッフとなんども意見交換と技術レビューをしましたが、すでに様々なハイブリッドシステムの開発を手掛けており、モーター、インバーター、電池、その制御と専門能力の高いエンジニアが我々のハイブリッドチーム以上に多いことに驚かされました。

トヨタハイブリッド方式に近い遊星ギアを使ったいわゆる動力分割方式のハイブリッドもいくつか検討しており、この時紹介されたものが後に量産化された大型SUV用ハイブリッドや『VOLT』のシステムに繋がったように思います。しかし、かみ合わなかったのは、次世代自動車への取り組みと車種選択の考え方、さらに開発の方法論、体制論でした。

またハイブリッド開発が『EV1』開発をリードしたスタッフが中心だったためか、先に電気自動車、自動車の電動化ありき、将来自動車の開発よりも自動車の電動化そのものを目的化していることに違和感を覚えたことを思い出します。この時に付き合っていたエンジニアが『VOLT』開発段階のリーダーを務めたようですが、そのハイブリッド機構として遊星ギアを使った動力分割機構を使いながら、EV走行に拘るあまり、その機構をハイブリッド走行の効率向上に生かせず、燃費向上を疎かにしてしまったように思います。

このEVへの拘りは、実務エンジニアの拘りというよりも、技術開発マネージ陣(その殆どが『EV1』開発メンバー)のTHSハイブリッドに対する敵愾心と、経営トップのトヨタに対する拘りにあったように感じました。

言うまでもないことですが、技術に対する拘り、さらにライバルに対する敵愾心と競争心はあって当たり前で、そのフェアな競争の中で技術進化は進み、またイノベーションの引き金ともなります。しかし、その商品対象としてのクルマの商品機能向上、さらに将来のクルマに求められる社会的要求にこたえていくことがR&Dの目的で、ハイブリッドも電動化も、その電池開発、燃料電池開発もその達成手段に過ぎません。

これからの自動車をどう描くかに注目

GMだけではなく、ビッグ3が傾いたのも、研究開発はしっかりやっていたものの、分野別専門家集団のR&Dに留まり、クルマとしての商品技術開発につなげられなかったこと、またこれはメディア報道どおりですが、社会要請として自動車のクリーン化、低燃費化が強まるなか、収益源の大型SUV、大型ピック偏重の軸足を変えられなかったことによるように思います。

これはビッグ3だけの話ではありません。トヨタも、環境自動車への変革をリードしながら、米国ではビッグ3追従の大型SUV、大型ピックアップの増産にシフトさせたことがリーマン後の落ち込みのきっかけを作ったようにも思います。また、業務の細分化、専門分化の弊害もやや気になっています。

ここまで短期にGMを再生させた背景には、景気の回復とともに戻ってきた大型SUV、大型ピックアップのマーケット拡大と中国での販売増があるようです。GM破産の寸前に当時のリック・ワゴナーCEOが発表したプラグインハイブリッド車『VOLT』は、破産後の2010年に量産化され、再生のシンボルとして環境重視の広告塔的役割を果たしていますが、毎月2,000台程度の販売規模で収益には寄与してはいないでしょう。

乗用車の低燃費ハイブリッド車では、トヨタどころか直接のライバルのFordに大きく後れをとる状況です。『EV1』で先鞭を切った電気自動車も、今の第3次BEVブームには乗り遅れ、今年6月に発売を開始した『Spark EV』も11月までの累計販売台数が500台を切る状況で、環境自動車への舵切はうまくいっていないように思います。

しかし、『晴れた日にはGMが見える』ではありませんが、まだまだ日本勢、欧州勢では自動車の将来を引っ張るには力不足で、アメリカの自動車を変えるためにはGMが変化する必要があります。もはや大型SUV、大型ピックアップ一点張りではダメなことは自明で、しかしエコの押し売りではマーケットからソッポを向かれ、自動車バッシング、脱自動車を加速させかねません。

メアリー・バーラCEOが新生GMの舵をどのように切っていくのか、間違いなく環境自動車の方向に切り替えていかざるをえないと思いますが、これと自動車のエモーショナルな部分(走り、音色、走り心地)両立が求められる自動車変革をどのようなやり方でやっていくのか、アメリカの自動車マーケットも好調なだけに、その舵さばきに注目しています。

短期的には間違いなく売れ筋でお客様が求めている大型SUV、大型ピックアップトラックの環境性能をどのように上げていくのか、マーケットの低燃費、低CO2志向がどのようになっていくのか、これからもメアリー・バーバラCEO率いるGMの動きを見守っていきたいと思います。