『リアルワールド』と自動車の環境性能

自動車における『リアルワールド』『バーチャルワールド』

『リアルワールド』、この言葉は『バーチュアル=仮想』”VirtualWorld”の対比として、よく使われる表現ですが、自動車の開発エンジニアの中でこの言葉が意識され、使われるようになったのは1980年代後半のことです。

自動車排気ガスのクリーン度や燃費は、どこの国、地区でも、クルマを実験室に設置されたローラーの上に載せ、そのローラーが道路上を走るのと同等の抵抗になるように調整した上で、国、地域毎に定められた走行パターン(時々刻々のクルマのスピード、アイドルの停止時間が定められたクルマの走らせ方)を、決められた試験燃料を使い、それも気温、湿度、エンジンを停止させてから試験開始までの駐車放置時間などなどが詳しく決められた条件に沿って走り、その結果から、その国、その地域の規制値、規制条件に合致しているかが判定されます。合格証がもらえると、そこからクルマを生産、そして販売することができるようになります。クルマを道路上ではなく、シャシーローラーでの試験で評価することから、これを『バーチャル』、実際の道路を走行した状態を『リアルワールド』と言っています。

この言葉を耳にしたのは、1990年にアメリカに出張したときに会ったGMのシニアなエンジニアからでした。その彼が、”Real World Driving Condition”との言葉を口にし、『バーチュアル』のローラー上のクリーン度判定だけにとらわれるのではなく、自動車メーカーのエンジニアも実際に使われる様々な条件、すなわち『リアルワールド』でクリーンにしていく必要があると言い出しました。後で述べるように、厳しい規制が決められ、それに合格するクリーン自動車に切り替えてきても、『リアルワールド』の都市大気汚染がなかなか改善されず、アンチ自動車のような厳しい規制強化が議論され始めたことが切掛けでした。

もちろん、排気ガス規制、燃費規制、それを決める公平な尺度としての試験法は、『リアルワールド』での大気改善、石油消費量の削減が目的で定めらものですが、そもそもは排気ガスのクリーン度を判定する試験法をして定められ、その後の石油ショックで燃費規制が実施されると、同じ試験法で燃費も同時に評価するようになりました。試験法は一つの尺度、クリーン度、燃費、それぞれ別々の試験法が定められると、その評価と規制に合格するように開発する手間はそれだけ増えていきますので、メーカー側は簡単な試験法を歓迎してきました。

1970年12月、自動車交通の多い大都市での光化学スモッグなど、都市大気汚染問題が深刻化し、マスキー法として有名なアメリカでの厳しい排気ガス規制、大気浄化法改定案が制定されました。続いて、日本、欧州と同様の厳しい排気ガス規制が導入され、日本では光化学スモッグ発生頻度が下がり、1980年代に入ると排気対策としては一段落、ホット一息ついて、次は燃費とエンジンの性能向上競争に明け暮れた時代でした。

もちろん、排気ガス規制を満足したうえでの燃費とエンジン性能向上競争ですが、私もこの時代、セリカ、スープラ、ソアラ用として、4バルブエンジン、その過給エンジンの研究開発と高性能エンジンではより高度なクリーン技術が必要になるため、そのクリーン技術開発に取り組んでいました。

アメリカでは、排気ガス規制の中身として、長期間、長距離使用の経年車保証規定が盛り込まれており、実際に経年車の排ガスチェックが行われるようになりました。成績の悪いメーカーは排気浄化システムリコール命令を出され、触媒の交換などが求められ、台数によっては1車種数百億円といった巨額なリコール費用を要し、この排気ガスリコールを起すと経営にも影響する大問題との認識でした。

Big3はこの排気ガスリコールを多発、巨額のリコール費用負担の他、このリコール多発も一つの要因として、品質問題が悪いとの印象をお客様に植え付けていったように思います。一方、日本勢は成績優良、われわれも実際に使われる地域ごとのガソリンの質、オイルの成分、クルマの使い方、メンテナンスの実態にまで目を光らせ、規制で制定された方法よりもはるかにシビアな社内試験法まで設定し、品質向上に取り組んでいました。今振り返ると、これが『リアルワールド』を意識した始まりだったように思います。しかし、このときは”RealWorld”との言葉は使ってはいませんでした。

この実際にお客様が使う走行環境、条件での品質向上の真面目な取り組みが、トヨタのクルマはこわれない、品質が高いので安心して使えるとお客様の評価を高めたばかりではなく、規制を決め、その評価法を決める規制当局からも信頼されるようになっていったとおもいます。私が開発に関わった1970年代から1990年代前半には、トヨタはアメリカで経年車の排気ガス規制オーバーによる排気浄化システムリコールを一度たりとも起さなかったことが、今でも私の誇りです。 

『リアルワールド』”Real World”と言葉が実際に使われ、それを巡って次ぎの排気規制値や、さまざまな規制方法、評価法が議論されてきたのが、最初に述べたように、1990年に入ってからです。

カリフォルニア規制を導いた『リアル』

われわれは、排気浄化システムの品質向上に務め、経年車の排気ガスチェックでも良い成績を収め、正直、ガソリン自動車の排ガス問題はもう深刻なレベルではないと思っていました。しかし、1980年の後半に、アメリカのカリフォルニア州から耳を疑うような厳しい排気ガス規制強化案が提案されました。これが、いま電気自動車の宣伝にもつかわれるゼロエミッション車(ZEV)の販売義務づけ規制を含む、カリフォルニア州のZEV(Zero Emission Vehicle)/LEV(Low Emission Vehicle)規制です。

この規制案をクリアする排気ガスシステムの開発に早急に目鼻を付ける必要があり、このとき私はその開発リーダに指名されました。

余談ですが、マスキー対策、ZEV/LEV規制、そしてプリウスハイブリッドの開発と、どういう訳か、とんでもないプロジェクトを担当させられ続けてきたのが私の自動車開発屋としてのキャリアです。その合間に、セリカ、スープラ、ソアラ、初代レクサスなど、胸がときめく高出力エンジンの開発にも携わることができました。

1980年代は、主に将来エンジンの研究開発を担当し、アメリカ出張の機会はありませんでしたので、リーダに指名され、なぜこのような厳しい規制が提案されるのか、自分の目、耳で確認してきたいと思い立ちました。丁度、ロスで開催されるこの規制の公開ヒアリングへの出席をかねて、現地調査とカリフォルニアの規制当局CARB(California Air Resources Board=カリフォルニア州 大気資源局)スタッフとの懇談をセットとしたアメリカ出張を計画しました。丁度、6月中旬だったと思います。

この時、今回の表題である『リアルワールド』に目を開かされました。日本からのロスへのフライトでは、サンフランシスコ上空から西海岸沿いをロスに南下し、海岸にあるLAX空港に着陸します。真っ青な上空、空の青と海の青が美しい西海岸を飛行します。ロスに近づくにつれ、上空は真っ青にも関わらず、地上は視界が悪くなり、たなびく薄茶色の霞みに覆われてきました。これが、ロスの光化学スモッグだったのです。上空からでも、目では追えないぐらい広いロスの市街地全体をこのスモッグが覆いつくしていました。
当時の東京上空のスモッグに比べても、遙かに厚く広いスモッグでした。

数日後に、スモッグの状況がよく見えるといわれる、ハリウッドの北にある、天文台で有名なグリフィスヒルの展望台に連れて行ってもらい、ロス市街地のスモッグの状況を観察することができました。この日も、天気が良く、また気温が高く、絶好の?光化学スモッグ観察日よりでして。ロスのダウンタウン上空も霞が掛かっていますが、そこからさらに東の山麓付近に、薄茶色が他よりも際だって濃いスモッグが漂っている地区が見渡せました。それが、光化学スモッグの主成分であるオキシダント濃度が高い地域で、そこに入ると目に刺激を受け、咳き込んでしまい、また刺激臭を感ずるひどい状態であるとのことでした。実際の光化学スモッグのひどさが体感できました。

ロス地区の最高オゾン濃度推移

図は、ロスの当時の光化学スモッグ原因物質であるオキシダント濃度平均レベルの年ごとの推移です。(1997年 私の博士論文より引用)マスキー法から、厳しい排気規制が実施されてきましたが、それでもオキシダント平均濃度は、それほどドラスティックには低下していませんでした。健康への影響度から定められた、アメリカ連邦の環境基準値を遙かに超える水準で、それを下回る見通しが全くつかないなかで、ZEVを含む厳しい排気ガス規制が提案されてきたわけです。

このときの『リアルワールド』が、その後も私が自動車環境問題を考え、開発に取り組む時の基本指針の一つになりました。環境規制法規に則った、法規適合性(コンプライアンス)だけではなく、その法規が制定された所以の実際の環境問題に有効な技術を開発し、それを普及させることが大切との考えです。

ロスの光化学スモッグレベルはいまだに、この環境基準を達成できていませんが、LEV規制とそれに続くさまざまな対策により、この95年以降も濃度低下が進み、もう一息といった状況にきているようです。

『リアルワールド』での実効性こそが肝要

このロスの光化学スモッグを代表とする、大都市の大気汚染問題は自動車が密集する大都市特有の問題と捉えてきましたが、『リアルワールド』の実態として地域限定のローカルな問題だけではないようです。最近日本の日本海側の都市で、オキシダント濃度が高まり、光化学スモッグ警報が発令する日が増加してきており、それが黄砂だけではなく、中国から偏西風にのってやってくる汚染物質の影響とのことです。『リアルワールド』を日本に限定するだけではすまなくなってきています。

この論からいうと、地球温暖化問題はさらにグローバルな問題、『リアルワールド』かつ『グローバル』に取り組む必要があります。その数台のクルマがゼロエミッションでも、また日本だけがローカルに取り組んでも、その効果は微々たるもの、しかし『リアルワールド』『グローバル』な技術として世界をリードできれば大きな効果をもたらすことができます。

この温暖化ガス排出削減にもつながる燃費規制、CO2規制への対応も、この『リアルワールド』『グローバル』の考え方が重要と思っています。もちろん、規制レベルを公平に評価する尺度としての試験法に沿って、高い燃費性能を発揮させることも重要ですが、それと同時にこの『リアルワールド』で燃費改善、CO2削減効果をどう高めるかの実効が重要です。

トヨタだけではないと思いますが、社内基準として、東京/名古屋市街地渋滞モード、六甲/富士/箱根登坂モード、欧州市街地/郊外/高速/超高速、米国市街地/フリーウエー、さらには低温始動ヒーター作動運転、高温エアコン冷房運転など、実際の使用環境の代表的な運転条件を定めた『リアルワールド』を意識したさまざまな試験基準を作っています。
それを尺度としながら、ハイブリッドプリウスの開発は進めてきました。

以前のブログにも書きましたが、『リアルワールド』は千差万別です。燃費では、確かに大気汚染が深刻な信号ストップが多く、低速走行が中心の大都市での排気クリーン度評価を再現性よく、簡単にとの趣旨から作られた日本の10-15モードの燃費を、『リアルワールド』走行で出すことはきわめて困難であり、『リアルワールド』の代表ではないと思います。

以前、EV走行レンジについて述べたブログで扱った、アメリカの販売店での展示車にはその窓ガラスに公式燃費値を所定の書式で書いたレベルを貼ることが義務づけられています。これが通称ラベル燃費で、その算出法は非常に複雑、その値を算出するには冬の低温エンジン始動ヒーター作動運転から夏の高温エアコンフル作動運転などさまざまな運転モードの燃費を計測し、その値から算出します。6年ほどまえに、当時のラベル燃費値では、ユーザーが実際の走行で記録する燃費との乖離が大きいと訴えられ、改訂されたのがこのレベル燃費算出法です。平均的なユーザーが『リアルワールド』の使い方の中でだせる燃費値に近い値であることは確かですsq。

そろそろ日本独自に拘らず、このような試験法も『リアルワールド』を意識した上での国際標準を目指す時期にきているのではないでしょうか?

しかし、『リアルワールド』&『グローバル』での低カーボン自動車の実現はそう簡単なものではありません。ハイブリッド、その電池、自動車の電動化と先頭を走ってきた日本勢が、『リアルワールド』『グローバル』の視点で、この先もリードを保ち、実効のあがる環境保全に貢献していって欲しいものです。