「アメリカのプリウスの父」との思い出

デイビッド・ヘルマンス ―アメリカにおけるプリウスの父―

アメリカで “American father of the Prius.” と呼ばれたトヨタのエンジニアがいました。彼の名は“David Hermance”、私より少し若く、我々はデーブ、デーブと呼んでいました。

彼が1991年の春にロスの車両開発拠点、トヨタ・テクニカルセンター・U.S.Aに入社して以来の長い付き合いの友人であり、ハイブリッド車プリウスの開発ストーリーでは紹介を落とせない仲間の一人でした。しかし残念なことに、2006年11月26日(日)に趣味としてやっていたアクロバット飛行のフライト中にロスの沖合で墜落死してしまいました。

デーブはGMインスティチュートの出身で、GMに入り、主に自動車用エンジン評価を担当し、排ガス・燃費関連の認証試験担当のマネージャーを務めていたGM生え抜きの自動車エンジニアでした。1990年の始め、カリフォルニア州から提案されたLEV(低エミッション車)/ZEV(ゼロエミッション車)規制、OBD(故障診断システム搭載)などなど様々な環境規制強化の提案があり、規制制定の議論、そのルールメーキングが始まり、公聴会、公開討論会への参加、その情報収集、ルールメーキング活動への参画、その新ルールに対応する開発エンジンの現地評価、チューニング作業など、体制強化を図るため、西海岸で仕事をしたいと希望していた彼がマネージャーとしてトヨタの現地チームに加わりました。

ZEV以外のクリーンエンジン開発リーダを指名された私も、1990年初めから、情報収集、規制当局との会合、公聴会への参加などでアメリカに出かける機会が増えてきていましたので、1991年に彼がトヨタに入社以来のアメリカでの活動には欠かせないパートナーでした。

アメリカ自動車業界に残る彼の名

今回、彼の紹介をしようと思ったのは、丁度今週末からシカゴで開催されるシカゴ・モーター・ショーでの出品車をインターネットで調べていたら、画期的な低燃費自動車に与えられる賞に彼の名前が付けられていることを知ったことがきっかけです。

その賞は “ “Hermance Vehicle Efficiency Award””と名付けられ、2010年の最初の賞はフォード・フュージョン・ハイブリッドに授与されています。(3代目プリウスとの一騎打ち)彼が飛行機事故でなくなった翌年の2007年シカゴ・モーター・ショーでもアメリカでのハイブリッド車普及への貢献をたたえ、メモリアルイベントが開催されていたことを記憶しています。

彼は初代プリウスのハイブリッド開発に直接携わっていたわけではありませんが、その開発後半にあるきっかけでアメリカのハイブリッド技術スポークスマンとして加わることになりました。1997年春にハイブリッド車開発の技術紹介と発売予告の発表を行い、発売予告を兼ねたエコキャンペーンを開始しました。その4月からは、当時のプレミオをハイブリッドに改造した試作車ができあがり、そのクルマで日本でのジャーナリスト試乗イベントをスタートさせました。

それを耳にしたアメリカの販売サイドからも、アメリカでの試乗イベント開催を提案され、そのときに現地の助人として技術支援リーダとスポークスマンをお願いしたのが彼とハイブリッドとの関わりのスタートでした。それでどっぷりハイブリッドにはまり込み、担当のシステム屋以上に中身を勉強し、それ以来、アメリカでのスポークスマン役を務めてくれました。

アメリカで発売を開始したのは2000年の5月、欧米の使用環境にも適応できるようにとハイブリッドシステムのビッグチェンジをおこなったマイナーチェンジのクルマでした。この間、アメリカでの認可をうけるための認可手続き、試験法の交渉、クルマの現地評価、販売準備の技術支援、サービス体制作りなど様々な支援活動をやってもらい、また開発ブレーンとして開発スタンス、目標の設定、企業環境広報活動シナリオの策定などについても加わってもらいました。

北米でのプリウスの伝道師

プリウスなどトヨタのハイブリッドシステムはカリフォルニア州のLEV/ZEV規制の中で、ガソリンエンジン搭載車としてもZEVクラスのクリーン度を持つパーシャルZEVと認定され、さらにハイブリッド車はその中の先進技術PZEV(Advanced Technology Partial ZEV)と新しいカテゴリーまで作ってくれ、規制対応上の優遇を受けるようにないました。このカテゴリーの設定、規制ルールの変更を勝ち取るには、デーブの貢献は多大なものがありました。

エンジンパワーと電池パワーをミックスしてクルマを走らせるハイブリッドでは、そのクリーン度や燃費の試験法、申請書類に記入する諸元の定義など決まっていない項目があり、それぞれ認可官庁スタッフに提案し、決めて行く必要があります。この現地での交渉なども、彼がリードしてくれました。このような活動を通じ、日本の開発スタッフとコミュニケーションを密にとり、トヨタのハイブリッドの機構、作動を誰よりもよく理解をし、自分でもプロトを乗り回し、アメリカでのハイブリッド活動のスポークスマンとして様々なにイベントに、環境広報、企業広報、ハイブリッド販促活動に加わってくれました。

2003年に発売を開始した2代目プリウスの最初の発表は、4月に開催されたニューヨーク・モーター・ショーで行い、私も参加しましたが、このときのプリウス紹介のメインプレゼンテーターを彼が努め、非常に喜んでいたのが印象的でした。

このような活動を続けたことから、北米メディアなどで “American father of the Prius.” と呼ばれるようになりました。先ほど挙げたシカゴ・モーター・ショーの賞も、彼のアメリカでのプリウス、そしてハイブリッド普及拡大に大きな貢献を果たしてくれたことを語り継ぐために彼の名を付けた賞を設定したと設立趣意書に書かれていました。初回の受賞車がプリウスではなく、アメリカ製フォード・フュージョン・ハイブリッドであったのは少し皮肉でしたが。

このような技術貢献、社会貢献に個人の名前を付けるのはアメリカによくあり、アメリカ自動車技術会(SAE)でもトヨタのスポンサーのもと”David Hermance Hybrid Technologies Scholarship“と名付けられた奨学金が自動車工学を学ぶ学生のために設けられています。

彼は飛行機のスタント競技が趣味で、会う度にその飛行機の写真を見せられ自慢話を聞かされました。また、何度もフライトに誘われましたが、ロシア製エンジンのスタント飛行機に恐れをなし、いつもお断りしていましたが、その自慢の飛行機が海に突っ込み帰らぬ人となってしまいました。

トヨタのPHVのはじまり

先月末にプリウスPHV(プラグイン・ハイブリッド)の発売を開始しましたが、このPHVにも彼との思い出があります。2代目プリウスをアメリカで発売すると、そのクルマの電池を外部充電型のリチウム電池に載せ替えプラグイン・ハイブリッド車に改造するベンチャーが現れ、このPHVがエネルギー安全保障、環境保全の次世代自動車への近道との政治キャンペーンが始まりました。

このキャンペーンがエスカレートし、環境NGOや首都ワシントンのロビーストが、折からのガソリン高騰、地球温暖化、さらには保守派の人たちの石油の中東依存回避の手段として、このプラグイン改造プリウスが使われ、ホワイトハウス前でのデモにまで登場するようになりました。われわれも、安全でエネルギー密度が大きく、コストが安いリチウム電池が開発できたら、プラグイン化の可能性はあると考えていましたが、当時の電池ではまだ実用化は先と判断していました。しかし、われわれのプリウスを改造され、政治キャンペーンに使われ、さらにはその改造を商売とするところまで現れ、トヨタからのPHV発売待望論まで飛び出しては、だんまりで開発検討を進めるわけにも行かなくなりました。

日本での実用可能性検討をスタートさせながら、アメリカでの情報収集と外向きにどのようなスタンスとして説明するかをまず相談したのも彼です。

上のスライドは、彼とともに作り上げた次世代自動車普及に向けての説明用センテンスの一例です。
これは我々の実感でもありました。

「マーケット(お客様)は次世代エコカーに何を求めているのか?
(初代プリウス、2代目プリウスとお客様に受け入れられるハイブリッド車をめざしてきた結果、)お客様の多くはエコカーをお求めになりたいとの意思を示しています。― 但し、クルマとしての他の属性(クルマの諸性能)が同等か優れている場合にはー」

これが真実です。我慢のエコカーでは、価格に見合った性能、経済性でなければ、もちろん、信頼性、安全性、品質性能が劣るようでは、そのクルマの普及は望めません。

そして何度も、このブログで書いているように普及していかなければエネルギー、環境保全の効果はあがりません。

彼とプラグイン・ハイブリッドに対するスタンス・ペーパーを作り上げ、本格開発をスタートさせたのが2005年頃です。2006月に6月に、アメリカに飛んで彼とこのスタンス・ペーパーの詰めを行い、さらにアメリカのトヨタ販売サイドに説明をし、ワシントンに飛びエネルギー省(DOE)スタッフと話をし、そのまま欧州に渡り欧州のスタッフ、さらにはパリの新凱旋門の中にあるフランス運輸省に、自動車関係の国際基準作成委員会の委員長を訪ね、トヨタのスタンス・ペーパーを説明し、認可申請時の支援をお願いし、快諾を得たことを記憶しています。

2006年と言えば、丁度PCや携帯電話用リチウム電池の異常発熱問題、発火問題が騒がれた年です。この自動車用リチウムイオン電池の安全性確立について、エネルギー省の担当スタッフや、その安全性の研究を続けている国立研究所スタッフと議論をしたのも彼のアレンジでした。

そして、この6月の出張が彼と顔を合わせた最後となりました。事故の一週間前にもアメリカ出張がありましたが、このときは会う機会がなく、11月26日から欧州出張にでかけ、最初の日のスウェーデン・イエテボリのホテルで事故を知り大きなショックを受けたのを記憶しています。

それから、6年が経過しました。このスタンス・ペーパーに沿い、数多くの耐久試験、実証試験を繰り返し、安全、安心、信頼性に万全を期し、このプリウスPHVの発売に至っています。 

プリウスPHV

プリウスPHV

彼が生きていたら、このプリウスPHVにどのような意見を言ってくれるのか思い描き、プリウスPHVのコマーシャルやアクアやプリウスなどレギュラーハイブリッドや様々なハイブリッド車のニュースを聞いています。