二代目プリウス欧州カーオブザイヤー受賞

プリウス、ハイブリッド開発で様々な賞をいただき、その授賞式やフォーラム、環境イベント、広報宣伝イベントにも数えきらないほど出席しました。その中で、一番印象深いイベントは2005年1月17日スウェーデンのストックホルムで開催された“2005年欧州カーオブザイヤー受賞式”です。クルマとしての受賞式ですので、パワートレイン担当は本来は黒子、海外でのクルマ関係の受賞式にはそれまで出席はしませんでしたが、この欧州カーオブザイヤー受賞式だけは、自分で手を挙げストックホルムまで出かけて行き、受賞式に参加しました。

初代の開発エピソードは以前のブログでもお伝えしてきましたが、”21世紀に間に合いました”のキャッチフレーズで量産ハイブリッドとして脚光を浴びたスタートでした。しかし、当時の開発現場の実態としては京都COP3のタイミング1997年12月生産販売開始にやっとの思いで間に合わせたというのが正直なところです。なんとか、お客様にお渡しできるギリギリのレベル、このプリウスを初代初期型と呼んでいましたが、前後のバンパーに衝突時のダメージを防ぐ黒い防振ゴムが付いているのが特徴です。今でも、この黒い防振ゴムがついた初代初期型が走っているのを見かけると、そのけなげな走りに涙がでてくるほど嬉しくなります。

お買い上げいただき、愛用していただいたお客様には申し訳ありませんが、21世紀のグローバルスタンダードカーを目指したプリウスですが、あとで言われたように我慢のエコカーのレベルであったことは認めざるを得ません。このままでは欧米では通用しないと考えていました。生産販売開始前には、開発スタッフ達にほんの一服も与えられずに、次の改良プロジェクがスタートしていました。エンジン、ハイブリッドトランスミッション、その中に搭載する発電機、モーター、そのインバータ、さらに電池まで、普通なら2モデルは持たせなければいけないハイブリッド大物ユニットの全面変更まで決心していました。グローバル展開を図るには、ハイブリッド部品の品質もさらにレベルアップする必要がありました。これが2年半後の2000年5月のプリウスマイナーチェンジ、同時に欧米販売を開始した初代後期型プリウスのハイブリッドシステムです。この後期型プリウスでは、初期型の特徴だったバンパーの防振ゴムがなくなり、一体成形のバンパーとなりましたので一目でその違いが分かります。(写真1)写真1(初代プリウス)

この後期型プリウスも、海外でもいろいろな賞をいただきましたが、その中で残念な記憶は欧州カーオブザイヤーで次点となったことです。選考委員の採点表を見せて貰いましたが、将来のエコカーとして評価し、高い点数をつけてくれた方もおれらましたが、欧州では通用しないクルマとの酷評をいただきゼロをつけた方も複数おられ、このバラツキの大きさで次点に終わりました。私自身も、この後期型は欧州でこそ走る機会はありませんでしたが、士別のテストコース、国内の様々な道路での走行を行い、まだまだクルマ文化が根付き、ドイツアウトバーンがある欧州で評価されるレベルには達していないと思っていました。次点だったことが残念というより、シビアなコメントにも確かに納得するものがありました。次の2代目こそ、欧州の走行環境でも我慢のエコカーではなく、普通に流れにのり走れるハイブリッド車を目標とし、これまた開発スタッフ達は、休む間もなく2代目プリウス用の開発に取り組んでもらっている最中での次点の通知でした。

初代、その後期型までは、“21世紀に間に合いました”“量産世界初のハイブリッド”、“COP3に間に合わせよう””欧米でも使えるハイブリッド車”と、技術チャレンジの連続、その開発プロジェクトマネージは今思い返してもエキサイティング、無我夢中で過ぎたプロジェクトでした。車両チーフエンジニアの車両企画上のコスト目標も無視をし、とにかく世界初の商品を仕上げることに集中できました。

しかし、二代目からはそうはいきません。超トップのサポートは引き続き得られましたが、事務方からはそれまで使った巨額の開発費用や、設備投資の回収を迫られ、一方では、初期立ち上がりの品質不具合多発で従来車よりも多額の品質補償費を原価目標に積まされ、米国からはこのサブコンクラスで、当時の安いガソリン価格では売れる筈がないと酷評され、車両企画の元になる販売目標として1,000台/月を切る提示があったりと、二代目の車両企画、そしてハイブリッド企画も右往左往しました。

エンジン、ハイブリッドトランスミッションなど大物ユニットでは、コスト面からは1万台/月以上で生産ラインを計画することが最低ライン、欲を言うと2万台/月と言われていましたが、2代目プリウスでは1万台/月の企画さえあり得ないと言われ続けていました。それでは、まともな原価目標の立てようもありません。一時は、アルミボディーの限定生産燃費チャンピオン車で良いなどとの企画提案すらありました。21世紀のグローバルスタンダードどころの話しではありません。

技術部の中もアゲンストの嵐、そのなかでやっと立ち上げたのが二代目プリウスとそのハイブリッドシステムです。これまた、部品ベースでは、初代後期型からほぼ新設計での作り直しになりました。しかし初期型THSの大きな欠点の一つだった、エンジンのトルクアップ、パワーアップに対応するトルク容量アップ余地を増やすレイアウト変更まではやれませんでした。

二代目は、そんな中で欧米でも普通に走れるハイブリッド車を目指しましたが、振り返ると初代は無我夢中の技術チャレンジであっという間に過ぎ去っていきましたが、二代目の開発はそれ以外の苦労が多かった印象です。様々な制約、費用回収の要求からのコスト低減要求、さらに様々な外乱の中で、グローバルスタンダードの志しを下ろさず、知恵を絞り抜いて取り組んだ開発でした。

それだけ、いろいろあった2代目プリウスの開発でしたので、2005年欧州カーオブザイヤーの受賞はなにより感激した出来事でした。欧州販売開始は2003年末からでしたので、選考委員もしっかり欧州で走り込んだうえでの審査だったと思います。非常に高い得点で2005年カーオブザイヤーに選ばれました。

その選考委員の採点表欄をみると、初代後期型ではゼロ、もしくは非常に低い点数を付けた選考委員の方々が、この2代目プリウスには高い点をつけ、コメント欄に前回の低い点を付けたことが間違いで、ここまでの進化を見抜けなかったとのコメントが複数ありました。このコメントを読み、欧州でも評価してもらえるクルマにすることができと嬉しさがこみ上げてきました。これが自ら受賞式出席に手をあげ、寒い冬の観光にも不向きな1月中旬、ブリュッセルから一泊二日、トンボ帰りの受賞式でしたがストックホルムの受賞式に参加した背景です。

冒頭の選考委員会委員長Mr. Rey Huttonのスピーチの中で

「トヨタは(自動車としての)厳しい道を学んできた。カーオブザイヤーの審査委員は、2000年プリウスも候補としたが、その投票は割れていた。当時では、プリウスが将来のビーコンと見なした委員と、ハイブリッドのアイデアは見当違いと片づけた委員に分かれていた。新型プリウスは2000年には無かった大部分を持つようになった。今回は、32の候補車の中で、過去最高得点の一つ139点を獲得し、58人の審査員のうち39名がトップとした。」

などとこの受賞を紹介してくれました。

その後、当時の技術担当副社長がトロフィーを受け取るのを見守り、一緒に写真撮影を行い、多くの選考委員の方々と話しをすることができました。そのディナーで味わったワインは、それまでもその後も味わうことのあった有名シャトーのワインよりも美味しかったことが忘れられない思い出です。(写真2)

写真2(2005欧州カーオブザイヤー)

このブログを書きながら、はたと思い至ったことがあります。この欧州カーオブザイヤーの受賞式は2005年1月、これがひょっとすると今大騒ぎになっているVWスキャンダルの引き金の一つになったのではとの思いです。

プリウスハイブリッドが米国で、欧州で認知度が高まり、急激に販売を伸ばし始めたのもこの頃からです。講演会、フォーラムでの欧米エンジニアの態度、目線に変化を感じ始めたのもこの時期からのような気がします。特に、欧州のエンジニア、ジャーナリストは、審査員のコメント、委員長のスピーチにあったように2000年のモデルまでは、ハイブリッドを収益無視の広告宣伝用のシステム、欧州では通用しないとの意見が主流であったのに対し、この2003年二代目でその見方が変わったように思います。

当時は、欧州でも認知されたことを喜ぶばかりでしたが、そこまでインパクトを与えたとすると、それから10年、3代目から4代目をこの世界にサプライズを与えたインパクトを引き継げているか、次の機会には振り返ってみたいと思っています。

この二代目プリウスは、このブログのように、2005年欧州カーオブザイヤー受賞の他、北米カーオブザイヤーも受賞しました。しかし、本家本元日本ではカーオブザイヤーを逃してしまいました。日本のエンジニアである私にとっても残念なことでした。

二代目のハイブリッド開発は、様々な制約はありましたが、我々には我慢のエコカーから欧州(ドイツアウトバーンを除き)で普通に心配なく走れるエコカーの実現の目標にはブレはありませんでした。しかし、今振り返ると、社内では走りの良さをアピールポイントにしたいとの声が強すぎ、走り系のモータージャーナリストから、欧州車との対比で拒否反応があったことも原因かとも思っています。

今回の騒ぎで思い出したことが、あたりか、外れは判りませんが、時代を切り拓くつもりでやったことは確かです。フェアな土俵で、その次の時代にも安全・安心、自由に快適に移動そのものも楽しめるFuture Mobilityを巡る、世界自動車エンジニアのチャレンジを期待します。