Macintoshとプリウス

今日は先日亡くなられた偉大なクリエーター、スティーブ・ジョブズ氏を偲んで、アップル/マッキントッシュとプリウスの関わりについてご紹介してみたいと思います。

ちなみに私も古くからの“リンゴ派”、もちろん食べるリンゴも好きですが、二十数年前からの年期の入った“リンゴ・Mac派”、仕事ではWindowsに転向せざるをえませんでしたが、プライベートではその後も両刀遣い、いまでも海外出張と講演にはマック・エアを持ち歩き、i-Phone、 i-Padを愛用しています。

自動車とコンピューター

彼スティーブ・ジョブズ氏が彼の友人であるスティーブ・ウォズニアック氏がワンボード・マイコンを使って自作したコンピューターを見てそれが気に入り、彼と共同で自宅ガレージでの手作りコンピューター製造ビジネス、アップル社をスタートさせたのが1976年です。

1976年というと、秋葉原のパーツ店でもマイコンチップが比較的簡単に手に入るようになった時期、GMがマイコンを使ったエンジン点火時期制御をやっているらしいとか、Fordが東芝と組んで燃料噴射エンジンを使ったエンジンマイコン制御システムの開発をやっているなどの情報を耳にしたのもこの時期です。燃料噴射エンジンによるクリーンエンジン開発グループの係長だった私も、エンジンマイコン制御の味見をしてみようと、スタッフを指名し勉強会を始めたのが1976年でした。そのスタッフは、秋葉原に勉強会用のマイコンチップを買いに出張し、燃料噴射の制御には8ビットでは不足、12ビットぐらいが適当な精度と判断し東芝が販売していたTLCS12という12ビットマイコンチップを買ってきました。一杯穴のありた回路自作用のプリント版に、そのマイコンチップなど、買い集めた部品を半田付けし、燃料噴射と点火時期を制御するエンジン制御マイコンを作りあげ、クルマの乗せたのがトヨタでのエンジンマイコン制御のスタートでした。この時、マイコンの勉強用として使ったのが、NEC製の8ビットマイコンキットTK-80で、これでマイコンの基本、プログラムの基本を学んだものです。このころのマイコンは、TK-80 で使っていたインテル系8080シリーズかモトローラ系6800系でしたので、両スティーブ氏が使ったマイコンもそのどちらかだったと思います。

脱線ですが、アップル設立のパートナーのスティーブ・ウォズニアック氏は、大のプリウス党、複数台のプリウスを愛用されているとの話は耳にしたことがあります。ちなみにジョブズ氏の愛車はもっぱらベンツ、わがまま、自己中といわれていたジョブズ氏はその車を、従業員のブーイングを気にせず、アップル本社のハンディキャップ駐車場にいつも止めていたそうです。

トヨタの中のリンゴ派

私が“リンゴ派”になったのは、1990年頃に職場のPC化を漕ごうとし、その計画担当のスタッフが“リンゴ派”、彼のアレンジでMacintosh IICiという当時最新のMacとMacintosh SEという小型のMacを持ち込んでデモをやってもらったのがきっかけでした。今は当たり前ですが、Webページの操作に近いイメージで図面を見ながらマウスをクリックして画面を切り替えていくやり方が非常に斬新でそれにはまり込みました。職場でも、まだ社内LANを張り巡らせ、一人一台のPCにはほど遠い状態でしたが、報告書作成、講演資料作成、そのOHP原稿作成、データベース構築用と何台かのMacを買い込み有効活用を図りました。海外出張時にも出たばかりのノートタイプのMacを持って行き、僅かのメールのやりとりだけで、ホテル代よりも高い電話代が請求されビックリしたのもこの時代です。

1996年2月にプリウスに搭載するハイブリッドシステム開発担当として本社に異動となりましたが、そこのスタッフにも“リンゴ派”がおり、超短期のプリウス開発には文明の利器と部長、役員を説得し、PCの一人一台の整備としてMacを用意していました。このMacを整備が始まった社内LANに繋ぎ、セキュリティが厳しい開発職場では外部との接続はできませんでしたので、インターネットならぬイントラネット(社内ネットワーク)を介してメールシステムを作り上げ、情報連絡、試験日程の調整、会議の案内、数え切れないぐらいの不具合連絡とそのフォローに活用しました。このイントラネット活用なくして、このプリウス開発は乗り切れなかったのではと思っています。さまざまな不具合対策として多くの組織横断対策チームを作りましたが、その活動状況のフォローもそのイントラネットを活用し、書類、会議を減らすなど開発のスピードアップに役にたってくれました。

しかし、この頃のMacは動作が不安定、いつ爆弾マークがつくか、フリーズするかひやひやの状況でした。この作動が不安定なことから、全社のPC化ではWindowsに切り替えられてしまい、初代プリウスを立ち上げて間もなくMacは職場から急激に姿を消してしまったことは残念です。

私を含めて、開発屋に“リンゴ派”が多かったのは、もちろんセンスの良い拘りのデザインと、画面とマウス操作を基本とするPCの操作を簡単そうに思わせる(実際に活用するとなるとそれほど簡単ではありませんでしたが)操作系への拘り、やはり商品への強い拘りへのシンパシーがあったからだと思います。初代プリウスでは、始動時にキーオンすると、ディスプレー画面に“Welcome to PRIUS”との表示がでました。これも、多分“リンゴ派”の車両企画スタッフと表示設計のスタッフがMacの最初の表示である“Welcome to Macintosh”をもじってやらかした新しい商品への思い入れと拘りだったように思います。

丁度、1990年~この1996年にかけてはMacの暗黒の時代、スティーブ・ジョブズがアップルから追放されていた時代、デザインも今一歩、動作も不安定、商品への拘りが薄れた時代だったのかもしれませんが、将来のクルマに夢をいだき、ハイブリッドプリウスとい新しい商品に拘り抜いて開発を続けていた、1996年~1997年にかけて彼がアップルに復帰し、今日のi-Pod, i-Phone, i-Padに引き継ぐ“リンゴ”に飛躍にいたるiMacG3の開発をスタートさせていたことに、比べるべくもありませんが、拘りの“リンゴ派”として、また自己中、頑固な面にもアナロジーを感じていました。

偉大な世紀のクリエーター、スティーブ・ジョブズ氏のご冥福を祈ります。