ITS世界会議とプリウス
「ITS世界会議 東京2013」が開催されました
先週18日、東京お台場のビッグサイトで開催されたITS世界会議併設の展示会に行ってみました。最終日のせいか、アベノミクスの余波か、はたまた元気回復の自動車業界が温度をとっている大会のせいか、最近のスマートグリッド、エコ技術の大会・展示会に比べると活気を感じました。
このイベントを取り上げたTVや新聞はもっぱら「自動運転実用化近し」との報道に終始していました。しかし、展示会場を駆け足で回った印象ではまだ「どこまで人で、どこまで自動運転か」ということを法律の扱い・PL問題をふまえて慎重な説明も多く、それの到来はまだまだ先と少し安心をしました。
安心した理由としては、もし一気に自立型の全自動運転を目指すとすると、個人の自由で最もパワフルな乗り物であるモビリティをドライバーから切り離すことになり、根っからのフリーモビリティ派である私から運転する楽しみを奪うことになってしまうことをほんの少し心配したからです。この全自動自動車では、外形デザイン、内装を除くとまさにコモディティ化への道、フリーモビリティを否定する方向でもあることの心配です。
ハイブリッド開発のボスがITSのボスに
今週のタイトル、「ITS世界会議とプリウス」はあまり脈絡がなさそうですが、大いに関係があり、その関係をこのブログでは取り上げたいと思います。少し今日の本題から脱線しましたが、このフリーモビリティと将来としてハイブリッド車プリウスの開発に取り組んだ仲間であり、われわれハイブリッド開発チームを役員として監督したボスがこの「ITS世界会議東京2013の日本組織委員会委員長のITS Japan会長の渡邉浩之さんです。我々は「ナベさん」と呼んでいました。
「1997年12月京都COP3のタイミングに併せてハイブリッド専用車プリウスの量産を開始する」とトップが決めたのが、その期日へ残り2年となっていた1995年12月でした。まだ、テストコースどころか構内道路もまともに走ることができない状態での決定に、社内技術部門の同僚部長蓮からクレージープロジェクト、その近くには近づきなくないとの声も聞こえてきているなか、晴天の霹靂、ハイブリッド開発リーダが私に回ってきたのが翌年の3月、すでに残り22ヶ月を切る段階でした。
あるラインからは陰に陽に、このプロジェクトを止めるのはあんた、駄目と見極めたら被害が広がらないうちに止める提案をあげてくれと言われていました。
富士の裾野にあるトヨタの研究所から、豊田市の本社におかれたハイブリッド開発チームに加わったものの、プロト車の試乗どころか、あんたに説明をする時間もないからと資料一式を渡され、久しぶりの自習でハイブリッド機構の勉強をやりながら、もし止めざるをえないとしたらどのような状況になったときか、どのタイミングが被害を少なく止められるか、その止める想定まで考えた1997年12月までの日程計画を作り上げること、その上で開発作業の安全作業を願いすることがリーダとしての最初の仕事でした。
もちろん、開発を推進し軌道に乗せることがリーダの責務ですから、止めるシナリオは私の頭の中だけに留めていた話です。
さまざまな開発チームが検討を進める試作車が増えるにつれ、毎日のようにテストコースで「クルマが止まった」「電池から煙を吹いた」「まともに試験ができないので何とかして欲しい」など不具合報告が殺到し始めたのが1996年5月~7月にかけてのことです。この不具合調査とその対策を進める人材も不足しており、人集めをお願いしながら、少しハイブリッド機構の勉強が頭に入ったところで、開発体制をどう立て直すか、頭をかすめ始めた止め方、止め時のアクションシナリオなど切羽つまった状況に陥っていました。この時の事情は、2011年7月のブログ“非常事態宣言”に詳しく述べています。
ここで述べた“非常事態宣言書”の檄文をつくり、私なりのアクションプランを作って最初にぶつかっていった役員が、1996年6月に新任の役員として、われわれハイブリッド開発特別チーム、ハイブリッドのコア部品である電気駆動部品を開発するEV(電気自動車)開発部を担当することになった渡邉浩之さん――「ナベさん」です。
「ナベさん」との「こだま会議」で情報共有
これ以外にも二つの部を担当しており、ただでさえ多忙を極める新任役員にじっくりと状況を聞いてもらう時間をとることは困難でした。しかし、できるだけ早く危機感を共有していただき、他の役員、他の部署との連携強化と人員補充、組織強化を行なわないと手遅れになります。もし万一止める決断をしなければいけなくなった場合にも、役員との状況判断の共有化が不可欠です。
そこで、秘書にスケジュールを聞き出してとった手段が、豊田の本社から東富士研究所への出張の新幹線車内会議です。研究所までは三河安城から三島までの「こだま」を利用します、当時も今も「こだま」のグリーン車はガラガラでほぼわれわれの独占状態で、1時間強の「こだま」会議室で状況をご説明し、有事対応を相談し、賛同いただいたことが、このプロジェクト立て直しのきっかけでした。「こだま」会議では足りないところは、研究所までのクルマ会議、そこから三島にある自宅にもよらず豊田へのトンボ返りも、今振り返ると良い思い出です。
最優先で週1回の、情報共有化と車両主査、車両担当役員を交えた情報共有とプロジェクトマネージの戦略会議をセットしてもらい、これが生産開始まで欠かさず続けられました。節目節目では、このメンバーで夜間に試作車に仮ナンバーをつけ、現地、現物、現車での確認試走を行い、これも状況共有化として機能しました。
共に抱いた未来のパーソナルモビリティ
「ナベさん」は役員御就任前にはクラウンの車両主査をされていた方ですので、クルマの試走はお手の物で、カーブの多い山道を選んだ試走コースのブッ飛ばし振りにはビックリさせられたものです。そこでハイブリッド車の将来、クルマの将来について話をしたのが、パーソナルモビリティとしてのクルマの未来です。
エコだけでは不十分、エコは当然でその上で魅力あるパーソナルモビリティへと進化させようとの共通の想いが2代目、3代目へとハイブリッド進化への取り組みの原点だったように思います。幸いにも「ナベさん」にこのプロジェクトを止める相談をすることなく、1997年12月の生産開始、販売開始を迎えることができました。
その後も「ナベさん」を囲むハイブリッドOB会や、クルマの未来を語る会など、主に呑む機会でご一緒していますが、次は大盛況だったITS世界会議とそこで盛り上がっていた自動車の全自動運転の未来、パーソナルビリティの未来など、美味しいワインを呑みながら自動車の夢についての共有化を進める約束をいただいています。