COP3・COP17とプリウス
COP17が閉幕
南アフリカダーバンを会場に行われていた、地球温暖化問題緩和に対する、国際的な取り組みの枠組みを取り決める国際会議、COP17が、難産に難産を重ね、将来の取り組み方向を決める共同声明発表にこぎ着け、閉幕しました。
このCOP会議とは、国際連合加盟国が締結した条約「気候変動に関する国際連合枠組条約:英語名:United Nations Framework Convention on Climate Change(UNEFCCC)、いわゆる地球温暖化防止条約ともいわれ、その条約締結国があつまりその実施方向を決める最高意思決定機関である気候変動枠組条約締結国会議(Conference of the Parties)の名前をとってCOPと呼んでおり、COP17とはその17回目の会議です。
この条約は、1992年6月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた、環境と開発に関する国際連合会議、通称地球サミットで採択され、155カ国が署名し、1994年3月に発行しました。
この会議では、セバン・スズキという当時12才の日系カナダ人の少女が「もうこれ以上この地球という星を壊さないで」というスピーチを行い、大きな反響を呼びました。このときのスピーチは伝説のスピーチとして今も語り次がれています。
NHKエコ・チャンネルhttp://cgi4.nhk.or.jp/eco-channel/jp/movie/play.cgi?movie=j_future_20101011_0650
このリオ地球サミット、21世紀にむけ「持続可能な開発」を実現するために、各国および関係国際機関が実行すべき行動計画「アジェンダ21」を採択し、これがきっかけとなり「気候変動に関する国際連合枠組条約が締結され、その条約締結国会議として発足したのがCOP会議で、第1回は1995年ドイツ/ベルリンで開催され、年に1回、加盟国持ち回りで開催されています。
リオ地球サミットから環境自動車開発への流れ
トヨタプリウス開発のきっかけの一つが、このリオ地球サミットでの「アジェンダ21」でした。当時、私は静岡にある研究所でエンジンの研究開発に従事していました。この研究所のエンジングループはそもそも1970年代のアメリカマスキー法に代表される自動車排気ガス対策の研究開発を役割として発足、その後も排気のクリーン化、アルコール、天然ガス、LPGエンジンなど石油代替エンジンの研究開発、低燃費エンジンの研究開発、など将来エンジンの研究開発を担ってきました。
自動車の将来エネルギー・環境問題への対応シナリオを提案していくのも、この部隊の役割で、リオ地球環境サミット開催のきっかけとなった、国際連合環境計画(UNEP)と国際連合世界気象機関(WMO)が共同で設立した地球温暖化に関する科学的知見の集約と評価を目的とする、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が最初のレポートとして持続可能な社会発展を阻害する因子として地球温暖化を取り上げた1990年には、このレポートを巡り「サステーナブル自動車」をテーマとする研究がスタートし、その第1弾として当時研究開発を行っていたS2エンジンと呼ぶガソリン直噴2ストローク・スーパーチャージ・エンジンを搭載した車重450kgの超軽量小型車を試作し、翌年の東京モーターショーにこれからの時代目指すべき超低燃費自動車「トヨタAXV-IV」として参考出品しました。このクルマは今もトヨタ博物館に保管されています。
ハイブリッドエンジンの研究開発もこの研究所からスタートしました。その後、トヨタ社内では、このリオ地球サミットと「アジェンダ21」に触発され、地球環境問題、エネルギー問題、そして21世紀ビジョンを考える機運が高まり、企業としての行動指針「トヨタ基本理念」が制定され、それを踏まえ、地球環境に対する自動車メーカーとしての対応方針として「トヨタ地球環境憲章」と呼ぶようになった活動基本方針と行動指針が策定され社内各部隊に、具体的なアクションプランを作り行動に移すようにとのトップ指示が下りました。技術開発部隊として1993年春にスタートさせた21世紀のクルマを目指すスタディープロジェクトがその後1997年12月発売のプリウスとなる、社内コードG21プロジェクトでした。
このスタディーの途中経過としてまとめ上げたのが、1995年東京モーターショーでの参考出品車です。スタイルは1997年に発売した初代プリウスと似ていますが、搭載したハイブリッドシステムは全く別物、機械式CVTと直噴ガソリンエンジンを組み合わせ、二次電池ではなく、キャパシターを使ったものでした。この方式ではなく、グローバルモデルにも適用できる、燃費2倍をめざすハイブリッド開発のプロジェクトは、このモーターショー展示の最中に最初のプロト車ができあがってきた時期でした。
丁度この時期、私は、アメリカ・カリフォルニア州で決まったゼロエミッション車(ZEV)・ローエミッション車(LEV)規制に対応するクリーンエンジン開発のリーダをやっていましたが、このLEV開発に見通しをつけたら次ぎは、エンジン自動車でのサステーナブルへの挑戦と考えていました。
ひょんなことから、このLEV開発に見通しが付き、アメリカ向け車両への量産エンジン開発がスタートさせた1996年2月、プリウス搭載のハイブリッドシステム開発のリーダ指名を受け、それ以来のハイブリッドどっぷりの生活を続けています。トヨタをリタイアしたのちも、このエネルギー・地球環境問題に対し、自動車を“チェンジ”させていく面白い時期にリタイアしてなるものかと、現役には煙たく思われながら活動を続けています。
このリオ地球サミットから、19年、セバン・スズキさんも成人になり、母として今も環境保護活動に取り組んでおられるようです。来年6月には、このリオ地球サミット開催20周年を記念して、またリオに世界各国首脳を集め、「リオ+20」という環境サミットを開催することが決まっています。
京都でのCOP3に間に合わせたプリウス
COPでは、1997年12月に、国立京都国際会館を会場にCOP3が開催されました。その最終日、12月11日に締結されたのが、気候変動に関する国際連合枠組み条約の京都議定書です。
今回のダーバンCOP17同様、最後の最後まで調整に手間取り、最終的に1990年を基準年とし、先進国が2008年から2012年までの各国毎に数値削減目標を定めその目標達成に向かい削減活動を実施すること、未達成の場合はペナルティを課すことなどで合意しました。これが京都議定書です。これをそれぞれの国に持ち帰り、条約締結国の55カ国以上が国内で批准すると発効することになっていました。
COP3では、アメリカ代表としてクリントン政権のゴア副大統領が参加し、当時として世界最大の温暖化ガス排出国であるアメリカとして積極的にその削減に取り組むことを約束していましたが、ブッシュ政権に代り、温暖化ガス削減目標の達成は経済成長の妨げになるとして条約批准を否決、またロシア連邦も批准を見送り、その発効が遅れていました。当時は発展途上国も自発的参加を表明していましたが、その後アメリカを抜き世界最大の排出国になった中国を筆頭に経済成長の妨げとなるとして自発的参加すら見送る状況になっています。
最終的には2004年ロシア連邦が批准することにより発効しましたが、排出量の圧倒的シェアを占める国が参加せず、一部の国だけがペナルティを課せられる、今となっては片手落ちの内容だと思います。しかし、このCOP3 は温室効果ガスの削減について国際的な達成目標とその遵守条項を定め、地球温暖化緩和を目指す最初の画期的一歩であったことは間違いないと思います。
初代プリウスの発売時期1997年12月は、どうも当時のトップがこの京都で開催されたCOP3を意識して決めたようです。マスキープロジェクト以外にも、何度か特急プロジェクトを経験していますが、その特急プロジェクトでも、いくつかの候補システムを絞り込む試作評価サイクルを少なくとも2回は回し、さらに実用化スタディーとマーケットスタディーを行い、その上で、品質とコスト目標の達成可能性を確認したうえで量産目標時期を定めるのが普通です。
G21では開発部隊は最速98年末を仮の発売目標として提案していました。これでも、新エンジンや新トランスミッションの開発サイクルよりも早いぐらい、まったく走らせたこともない新システムとしては異例のスケジュールでした。この提案に対し、いろいろな議論があったようですが、トップダウンで97年12月発売開始の目標が定められ大騒ぎとなったことを記憶しています。21世紀の環境自動車を目指すとするなら、日本で開催されるCOP3にプロトではなく登録車としてアピールしたいとの想いがその決定の背景にあったようです。
まだ、走行評価のできるプロト車もない1995年12月に量産化プロジェクトスタートの号令が掛かり、量産チームを結成して本格的に開発をスタートさせたのが、1996年3月です。このCOP3の開催に間に合わせ、正規のナンバー登録をしたクルマを用意するには、1997年9月末までには届出申請の審査と認定試験を終え、それに合格して認可書を戴く必要がありました。
量産開発を本格的にスタートさせてから1年半、なんとか日にちまでは忘れましたが、97年の9月中旬には認可をいただき、量産車を生産する生産ラインの生産トライ車両(トヨタ用語でこれを号試車と言います)から、社内最終試験や発表イベントのためにナンバー登録をスタートさせることができました。このクルマを京都に運び、展示や連絡用デモ走行用として,当初の目標どおり展示用や連絡車用として間に合わせることができました。正式に生産を開始し、組み立てラインの最終検査ラインから完成車として出て行ったラインオフは、COP3で京都議定書が採択された最終日の前日12月10日(水)でした。これが、リオ地球サミット、COP3と初代プリウスの裏話です。
日本から新たな環境への提言を
地球サミットから19年、21世紀に間に合いましたとのキャッチフレーズの初代プリウス発売とCOP3から14年、COPも3+14と17回を迎えました。21世紀に間に合わせたハイブリッド車はトヨタだけで350万台、それでも世界全体では500万台には到達できてはいませんが、温室効果ガスの削減にその効果をカウント出来るレベルに育ってきたように思います。
しかし、いつのまにか、世界の4輪自動車の数は、当時の6億台レベルから10億台を超えたようで、500万台といってもまだ1%にも届かないのが現実です。世界の人口も本年10月には70億人を突破、中国、インドなど当時の発展途上国の著しい経済成長により、石油など化石燃料消費量は急増し、その燃焼による温室効果ガスの発生量はそれにつれ増加しています。もちろん自動車だけではありませんが、化石燃料消費の削減をはかり、温室効果ガスの増加を食い止めていくことが待ったなしです。もっともっと、この自動車のチェンジを加速させていくことが必要です。
COP17では、京都議定書の延長と、2020年発効を目標に、京都議定書には加わらなかった世界の温室効果ガス排出量の半分を占めるアメリカ、中国、インドなどを加えて新しい枠組みをつくることを盛り込んだ「ダーバン合意」が採択されました。
日本は、延長が決まった京都議定書の2012年以降の数値削減目標の設定には加わらず、カナダは京都議定書からの脱退を宣言しました。日本は延長期間の削減義務を負う継続に応じませんでした。3.11東日本大災害の復興活動を進めるためのエネルギー需要、福島原発事故での脱原発、縮原発の動きと原発稼働率低下による温室効果ガスの増加からやむを得ない決断だったと思いますが、2009年のコペンハーゲンCOP15で、当時の鳩山首相が2020年25%の削減をぶち上げ喝采を浴びたのは何だったのだろうと思うばかりです。
京都議定書からの脱退ではないにせよ、京都の延長での削減義務づけ設定に加わらないという決定の国際理解を得るためにも、COP17で合意した新枠組みの合意をめざし、さらにその実効を高めるための温室効果ガス削減技術の普及支援活動とさらなるイノベーション技術へチャレンジによって世界全体としての削減活動に貢献していくことが果たすべき役割ではないでしょか?
ハイブリッド車、電気自動車やその電池など構成部品の現地生産も、日本の削減数値にはカウントされませんが日本の貢献です。鉄鋼もセメントも、生産量当たりの温室効果ガス排出量は世界最小です。ヒートポンプも日本の誇るべき省エネ技術であり、このような技術を更に進化させ続けることが日本の生きる道だと信じています。
物質万能主義とは言いませんが、我慢、節約のけちけち省エネだけでは、人の気持ちもシュリンクし、デフレスパイラルを加速させる一方です。今年の東京MSでは、前回2009年に比べ、開催日数が減ったにも関わらず、4割以上も入場者が増えたそうです。先週のブログでもその様子を述べましたが、これまで我慢をし、購入を見送っていた方々が、新しい自動車を見、そしてそろそろ購入を考えようと動きだしているのではと期待を高めました。
スタンドプレイで、2020年25%の削減などとぶち上げ、挙げ句の果てに我慢、節約、また産業活動に省エネ制約をかけ続けては、イノベーション技術へのチャレンジする人材すらシュリンクさせてしまいます。どちらにしても、日本の政治・外交は世界からの信頼を失っていますので、この際、口から出任せの国際公約はリセットし、現場ベース、もの作りベース、それを支える人間ベースの元気がでるエネルギー・環境技術へのチャレンジを進め、その世界展開で信頼回復と実質としての温室効果ガス削減へ実用技術の提供と普及活動として貢献していきたいものです。