14年間のハイブリッドの歩み

プリウス累計販売台数200万台突破

10月7日にトヨタ自動車からプリウスの累計販売台数が、本年9月末までに約201万2千台と、200万台を突破したと発表がありました。初代プリウスの発売を発表したのが今から14年前、1997年10月14日です。東京モーターショー開催を前に、東京赤坂の全日空ホテル(現ANA インターコンチネンタルホテル東京)の大宴会場を会場として新型車発売会が行われました。11月末から生産を開始し、12月1日(月)~京都国際会議場で開催される地球温暖化防止京都会議(COP3)の京都でデモ走行を行い、12月10日(水)に発売を開始するスケジュールでした。

当時のスケジュールノートを見ると、立ち上がり品質の最終確認、設計変更項目の折り込み日程調整、生産工場での品質レビュー会議、発売後すぐにスタートさせるサービス対応タスクフォース活動のチーム編成と作戦会議、全国のサービス拠点に送るプリウスの手配、その合間にカーオブザイヤー審査対応など広報宣伝スケジュールの調整と分刻み、休日は全くない状態でした。その間もクルマを生産する高岡工場にも何度も出向き、ハイブリッドトランスミッションを作る本社工場、インバータやコントローラを作る、広瀬工場、さらに品質として一番の心配の種であったハイブリッド電池パックを作る、PEVE湖西工場にも出向き、生産を開始したラインを見て回る、出荷品質などの話を聞いていたように記憶しています。

さて、発表後1997年末までに400台弱の登録が行われ、当年の量産化が条件であった当年のカーオブザイヤー受賞の条件を何とかクリアさせ、年末休みを迎えることができました。ただし年末休暇と同時にスタートさせたサービス支援タスクフォース活動は、大阪で発生した路上故障不具合の原因調査と修理作業支援によって新年の元日から本格出動開始、仕事始めとなりました。私も、本社の小さな会議室に設置した事務局に顔を出し、大阪に出張したタスクフォーススタッフからの連絡を受け、その後の不具合原因調査活動の打ち合わせなどで明け暮れた印象です。

それから14年、トヨタのハイブリッド車全体の累計販売台数は300万台を突破、その中核をしめるプリウスも200万台を突破するに至りました。まずは、日本、さらに世界各国のトヨタハイブリッド車、さらに初代プリウスのよちよち歩きの状態からご愛用いただいき、その成長を見守って下さった多くのユーザーの皆様に御礼を申しあげたいと思います。

1997年はやっと400台弱、前評判は上々、実用的なエコカーと様々な賞をいただきましたが、初期受注を配車したあとは電池など品質への心配などで中々伸びず、1998年は約17.7千台、1990年は15.2千台に留まっていました。初代の立ち上がりは国内販売に限定、われわれ開発陣としては、国内のお客様にしっかり使い込んでいただき、その声をフィードバック、品質も高め、欧米の走り方にも適用できるように走行性能も向上させた上で欧米に導入したいと提案していました。国内のお客様を実験台代わりに使ったわけでは決してありませんが、品質に万全を期したと言っても、新規部品のてんこ盛りのハイブリッド、従来車に比べ不具合比率が高くなることは覚悟していました。当時も、トヨタのマークが付いているから、品質の心配はしないでプリウスを購入したとのお客様の声をよく耳にしました。しかし、路上故障を起しがっかりしたとのお叱りの声も多く戴きました。少しでもお客様に迷惑をお掛けしないように、不具合の再発をしないようにと、開発スタッフの発案でサービス支援タスクフォース活動チームを結成し、手こずりそうな不具合の報告が入ると、夜に日を徹してそこまでプリウスで走り、即断即決、95%以上もの再発防止率を達成してくれました。ここまで成長できたのも、いくつかの不具合がありながらも、暖かく見守り、支援していただいた初期型ユーザーの方々のお陰だと感謝申しあげます。

プリウス・ハイブリッドの信頼性・安全性品質確保として想定したこと

1995年12月のトップ会議で、まだまともに走る試作車もないのに、新規開発の本格ハイブリッドを搭載したプリウスの量産開発にゴーサインがだされ、技術陣の提案では1998年末目標の生産開始時期が、1997年12月に1年も早められ、私がその量産ハイブリッド開発のリーダに指名されたと当時の担当役員から知らされたのが1996年2月でした。
 
その担当役員から、そのプロジェクトを止めるディシジョンが一番難しいので、止めざるを得ないケースの全てをおまえが想定し、ディシジョンのタイミングを失しないように、そのケースになりそうな情報は逐一、ハイブリッド、車両開発担当の役員と情報の共有化を図り、トップに持っていけるようにするようにとのアドアイスを貰いました。
その後、仲間の部長達からも、あんたが他のプロジェクトに悪影響を及ぼすようになる前に止める決断してくれと言われ、そのアドバイスも技術開発マネージャーの多くの意見として、無謀なプロジェクトだから何とか傷口が大きくなる前に止めるようにとのご意見だったのではと勘ぐっています。

もちろん、私も止めるタイミング、ケースについて様々な想定とケーススタディーを行いました。クルマの基本性能は、“走る”“止まる”“曲がる”であり、部品故障やシステム不具合で、ドライバーの意図通りにこの基本性能が発揮できなくなる故障、不具合のうち、さらに深刻な車両火災(FH)、暴走(OR)、高圧感電を誘発する可能性のある故障、不具合はどんな状況であろうが許されません。1つでもその起因となる可能性がある不具合が残ったら、その不具合をシロにしなければプロジェクトを止めることが求められます。この不具合はグレーの場合でも同様で、シロであることが確認できるまでは、生産、販売にゴーは掛けられません。

想定される限りのケースの確認を行い、さらにその想定を越える現象が起きたケースでも、最短の時間で、最短の動きで止めるフェールセーフ設計の確認も繰り返し、コンピュータだけではなくクルマの動作としての不具合再現とそのフェールセーフ動作の確認をギリギリまでやり尽くしました。やり尽くしたはずでも、開発段階で突き止めきれない想定外の不具合発生も想定する必要があります。そこは、それが販売したクルマでおこり、それが他のクルマでも起こる可能性がありそうならば、販売を止め、生産を止め、場合によっては既にお客様の手に渡ったクルマでも走行を止めていただき、回収をする決断まで想定すべきです。幸いにも、その様々な想定を越える、また止めると想定していたケースに遭遇することはありませんでした。

今でも、当時、もし止めると想定していたケースに遭遇したら本当に止める提案をし、止めることができたか、その責任を全うできたかと自問自答しています。担当役員との情報共有化、トップ役員にタイムリーな決断をいただくパイプを作っていただき、多くの役員からの全面的なサポートがあってやれたプロジェクトだと思っています。

ただしこうした致命的な不具合は無かったものの、いくつかの不具合でお客様にご迷惑をお掛けしました。お叱りを覚悟で申しあげるとそれも想定内、その対策のスピードアップとその再発防止が想定したアクションプラン、不意打ちを食らうことはありませんでした。この想定を私一人はやったわけではありません。人間としても専門能力としても信頼できる、何人かのスタッフが大部分の想定スタディーをやってくれ、分野ごとの設計部隊との間の想定を、抜けがないように繋ぎ、発売後のサービス支援、故障、不具合対応タスクフォースグループの結成までやってくれました。いずれも、開発現場、クルマの評価現場、製造現場、販売現場を繋いだ現場ベースの活動と、その活動を信頼し激励し、責任をとるマネージがあってやり遂げられたと思っています。