『自動車と移動の社会学』オートモビリティーズ
『自動車と移動の社会学』とのタイトルのハードカバー本を、私の息子が見つけ出し読むように薦めてくれました。法政大学出版局発行のこの本は、よくこのような固い内容の本を日本で翻訳して出版したものだと驚かされるほど、タイトル通り自動車文化社会論といった内容の本です。
M.フェザーストン、N.スリフト、J. アーリー、三人のいずれも現役の社会学者の英国人大学教授が編者を務め、欧州を中心とする自動車社会の変遷とその社会のなかでの位置づけに関わるさまざまな論文をまとめ、解説を加えています。
そろそろ固くなった私の頭では、内容を理解して熟読するにはいささか難解な論文が多く、ざっと一通り目を通すだけでアップアップですが、欧州での自動車の歴史と自動車にまつわる様々な歴史、発展の過程、さらにこれからの自動車、その社会の議論には興味を惹かれました。日本と対比して、欧州の自動車との長く、深いかかわりを感じさせられました。原著は2005年に発刊されていますが、自動車社会の未来として今話題となっている自動運転にも触れています。
このイントロダクションで、編者のM.フェザーストン教授は「自動車が前世紀のあいだ社会的風景と文化的想像において際立った存在であったことは疑いはない。」「自動車の存在は、ある強力な社会経済的、技術的複合体の作動により支えられているのであり、一部の人びとがポスト自動車について語りはじめているとしても、彼らが示唆しているのは鉄とガソリンによる自動車の終焉であって自動車の存在しない世界ではない」と述べています。
さらに、この本の副題となっているオートモビリティーズ(=自動車移動)の定義として、オートノミー(=自律性)とモビリティ(=移動)との組み合わせと解説し、「軌道に制限されない、独立動力を持つ自律操縦による移動能力」をもつものとしています。もちろん、この本は自動車礼賛論ではなく、交通事故、環境問題、渋滞といったネガティブな部分も含めた社会システムとしての議論から将来オートモビリティーズの議論を進めています。
固い話はこれぐらいにして、今日のブログは、この本に紹介されていた、“ハイブリッド”と自動運転について取り上げてみました。ここでの“ハイブリッド”はプリウスなど自動車とのハイブリッドをさしたものではありません。自動車、オートモビリティーズーズのもう一つの定義として、「自動車と運転者とのハイブリッド」を示しています。
「自動車と運転者とのハイブリッド」と自動運転
ガソリンや軽油で動く鉄の塊である自動車の人間である運転者との混合、すなわちハイブリッド化して、自律操縦による移動能力を持つことがオートモビリティーズとの解釈です。
1990年代中ごろの論文ですので、プリウスを意識したハイブリッドの表現ではなさそうですが、自動車と運転者とのハイブリッドとの表現が目に止まりました。確かに、ハードとしてのクルマとドライバーの意思による自律操縦による移動体がオートモビリティーズと読んでいますので、この混合をハイブリッド化と呼ぶことは面白い表現です。
2000年代初めの論文では、運転車を介在させない自動運転の考え方と課題が議論されていることが新鮮でした。この筆者はこの自動運転を自動ハイブリッド化と呼び、運転者が操縦から解放され、現在の交通事故の大部分が運転者の判断ミス、他の作業に気を取られた操作ミスが多く、これを防ぐ方向としての自動ハイブリッドと述べています。
自動ハイブリッド化により、運転手を介在させないほうが、安全性を高め、環境保全に役立つとの考え方は頷けないではありません。すべてのクルマが道路、クルマ全体として自動ハイブリッドシステムのコントロール下に置かれ、そのコントロールシステムが故障しない前提なら極めて安全かもしれません。また、排気のクリーン度、燃費効率最適の運転でも、人間の運転者に操縦を委ねるよりも多分、自動ハイブリッドの方がクリーンで燃費の良い運転をさせることができると思います。
しかし、この議論でも、一人のクルマの運転者が自動ハイブリッド化をやめて自分で運転し始めたとたん、自動ハイブリッドシステムは危険に陥るのではとの議論が始まっています。この自動から離れた運転者のクルマが外乱になってしまうとの意見です。
全てのクルマが自動ハイブリッド化されるようになる時代は迎えたとしても先の先でしょう。最近話題の自動運転はややはしゃぎ過ぎの気がします。自動ハイブリッドではないクルマも一緒に走る混合交通の中で、また自動ハイブリッド運転中に運転者が介入してしまった場合の安全性などこの本でも議論が始まっています。
ここから自動運転に話を進めると、運転者による自律操縦による移動体の定義であるオートモビリティーズから外れてしまうことを示唆しています。今から、この完全自動ハイブリッドシステムの議論は必要でしょうが、その前に安全システムとしてどこまで制御を介入させるかの議論も重要な気がしています。
少なくとも私の世代では、自動車と運転者のハイブリッド化としてのオートモビリティーズの世界が変わることはなさそうです。さらに、「鉄とガソリンの(石油燃料)による自動車の終焉」を見ることもないでしょう。
そのまえにも、ここでとりあげたハイブリッドではない、ガソリンエンジン(石油燃料)と電気駆動のハイブリッドと、歩行者、二輪を含むさまざまな障害物検知と車車間、路車間通信による安全運転支援システムの実用化に期待します。
とはいえ、日本でも将来自動車、将来輸送機関を議論していくにも、自動車そのものの技術論、規制論、環境保護論からのアプローチだけではなく、『自動車と移動の社会学』オートモビリティーズでとりあげている、人間社会学、社会システム論からのアプローチが必要と感じました。
欧州も本格的なモータリゼーションは1960年代から
この本をよんでいても、欧米の永く深い自動車社会としての熟成を感じますが、しかし一般に自動車が普及していったのは第二次世界大戦後の1950年代から1960年代でした。
それ以前は、ロールスロイス、メルセデスに代表される少数のブルジョアのクルマ、一般大衆にはまだまだ手の届くものではなかったとされています。ドイツではヒットラー政権のアウトバーン建設と後のVWビートルとなる国民車構想が大衆化の始まり、実際にこうした廉価版小型車が普及していったのが1950年から1960年代とされています。
日本ではトヨタパブリカの発売が1961年、マツダファミリア1963年、日産サニー1965年、トヨタカローラ1966年と1960年代にモータリゼーションが花開いていきましたので、それでも欧州とでも10年ぐらいの差しかありません。
鉄とガソリンの自動車コンセプトは1900年の初めに塊ましたが、一般に大量普及していった小型自動車はまだ60年を少し超えたぐらいの歴史です。確かに、1960年~1980年代には欧州勢の背中を追いかけていた印象がありますが、クリーン排気、低燃費、さらに欧州では高級プレミアムエンジンのそれも一部にしか使われていなかった4弁エンジンや過給エンジンの小型量産車への採用、その電気制御化の拡大など、1980年代にはキャッチアップできたとの印象がありました。さらにハイブリッド化では一歩先に出たと思います。
しかし、日本では『自動車と移動の社会学』オートモビリティーズの議論のような、社会システムとしてのクルマ、その未来の議論はまだまだ不十分、オートモビリティーズの本質を踏まえて自動ハイブリッド化、その前の安全運転支援システムを技術論だけではなく社会システム論としてもオートモビリティーズの延長なのか別のモビリティ(移動体)をめざすことになるのか、しっかりとした議論の上で将来の自動車を語る必要性があるのではないでしょうか?