初代プリウス・ハイブリッドのトラクション制御顛末記

最初は機械部品保護の為だったトラクション制御

初代プリウスのハイブリッドシステムには、モータによるスリップを低減する制御を採用していました。

この機能はクルマのマニュアルにも、クルマの販売店や修理工場向けにお出しする新型車解説書、修理書にもあまり詳しく説明は加えていませんでした。
当時の新型車解説書を見ても、THS(トヨタハイブリッドシステム)の説明部分に、たった2行の説明として

7. その他の特徴と注意
(1)THSは滑りやすい路面などで駆動輪がスリップし、前輪の車輪速度が後輪に対し過大になると、駆動力を抑制し、スリップを低減する制御を行います。

との記述があるだけで、それ以外の解説はどこを眺めても出ていません。

これはこの制御が基本的にはTHS部品が壊れないように保護することが目的で取り入れたもので、はじめからTHSの売りの機能として開発したものでは無かったからです。

そもそもこれは、THSがそのような場合にたまたまタイヤのスリップを抑制するトラクション制御に近い作動を行うことから、この制御を行ったときに故障と思われないようにスリップインジケータ灯を点灯するとともに、この機能を説明書に書き加えたのが真相です。

今では、250万台以上ものトヨタのハイブリッド車に搭載されるようになったTHS(トヨタハイブリッドシステム)ですが、この時にこの部品保護が狙いから始まったスリップ抑制制御が、後々の回生ブレーキ制御やステアリング制御と連動してクルマのスリップ安全性を高める先進VSC(Vehicle Stability Control)へと発展しています。

THSのトラクション制御のメカニズム

ではもう少し細かくTHSのトラクション制御について説明しましょう。
THSトランスミッション_図1

THSのハイブリッドトランスミッションの説明には、必ず動力分割機構の構成と、各走行状態でのエンジン・発電機・モータの運転状態を説明する共線図が示されています。
図1は初代プリウス・ハイブリッドトランスミッションのカットモデルです。THSには通常のオートマ車にあるトルクコンバータも変速ギアも、クラッチもさらには後進のギアもありません。
中央付近に動力分割機構と呼ぶ遊星ギアがあり、それにエンジン、発電機、モータが接続され、機械的にはかなりシンプルな機構となっています。
THSトランスミッション_図2

図2はこの動力分割機構部の接続模式図です。
図にあるように、エンジンは遊星ギアのリングギアとサンギアの間に置かれたピニオンギアを取り付けているキャリアに接続され、発電機は真ん中のサンギア、モータは外周部のリングギアに接続されています。さらにモータが接続されているリングギアはチェーンとギアを介しデフギアに繋がれており、デフギアに2分割されその2つのシャフトに先にホイールがありタイヤが取り付けられています。THSではこのように、エンジン、発電機、モータ、そしてモータからタイヤは、機械的に接続されていることになります。

この遊星ギアの動作を説明するときによく共線図というグラフが使われます。
THSトランスミッション_図3
THSトランスミッション_図4
図3と図4はこの共線図をつかって、タイヤスリップ抑制のトラクション制御やタイヤのロック防止ブレーキ制御(ABS)の挙動変化を説明します。

遊星ギアでのサンギア、キャリア、リングギアの回転数は、この共線図にしめされるように、タイヤのスリップやロックのような状態でも、図のように直線関係を保ったまま変化します。

THSでは、エンジンを止めたままでのモータによるEV走行や、エンジン運転を行いながら発電機で電池を充電させ、下り坂での減速回生、ブレーキを踏んだ時の回生などを行っています。また、後退走行ではモータを逆回転させることによってクルマを動かしています。

このような機構を用いることによってTHSは、さまざまな運転状態、作動状態、環境条件でドライバーの走行要求に応じてクルマを走らせることを可能としています。

しかしこの機構は様々な走行に柔軟に対応できる一方、逆にその動作範囲の広さから一部の条件下では、衝撃が構成部品の設計条件を超えて部品の破損を招く、もしくは大きなショックやドライバーの意図しないクルマの挙動を引き起こす恐れもありました。

特に、アイスバーンなど滑りやすい路面でのタイヤスリップ(図3 ❶→❷の変化)やタイヤロック(図4 ❸→❹の変化)などでは、タイヤ速度の急激な変化が、共線図の特性によって、モータや発電機の回転数を大きく変化させてしまいます。

この回転数の急激な変化は、モータや発電機の電圧、電流の大きな変動を引き起こし、場合によっては、電流/電圧制御用のパワー素子を破損してしまうことが判りました。また、この回転数の急変はトランスミッション部品やデフ部品の破損を招く懸念もありました。

我々はこれを防ぐため、急激なタイヤスリップを防ぐ制御、すなわちモータ回転の急上昇を防ぐ回転制御を行うことにしました。これは、まさにアイスバーンなどの発進時や先回時にタイヤスリップを防ぐトラクション制御ほぼ同じ動作です。上にも書いた通り、初代プリウスでは、最初はトラクション制御を目的とはせず、まずは部品保護からこの制御を採用したのです。

また、タイヤ回転数の急激な変化としては、アイスバーンなど滑りやすい路面でブレーキをかけたときのタイヤロックもあります。これを防ぐのがABS(アンチロックブレーキシステム)です。プリウスでは、重いモータがチェーンとデフを介しタイヤにもつながっており、一度タイヤがロックしてしまうと、従来のクルマのABSにくらべ、ブレーキに油圧を抜いても、なかなかタイヤが回ってくれない状況もおこりました。言い換えると、ABS制御の効きが悪い状態です。
これも、応答性の良いモータに電流を流し、少しタイヤを回してやることで解決しました。

開発は実際の環境で行わなくてはならない

初代プリウスの開発は、1997年12月の販売開始を決めて量産プロジェクトをスタートさせたのが1995年の12月です。このようなタイヤのスリップやロックがおきやすい、アイスバーンや雪道で評価、確認を行えるチャンスは95~96年と96~97年の2回の冬だけ、しかも95~96年の冬はまだ試作品ができたばかり、商品にするクルマとして評価出来るレベルではありませんでした。

残りのチャンスは96~97年の冬だけ、それでも生産開始前までに10ヶ月以上も間があり、その状況では開発はまだまだ最終仕様からはほど遠い状況でした。タイヤスリップ防止、ロックからの復帰制御の大枠は確認され、部品保護の見通しはつけてはいましたが、クルマのショックや挙動をチューニングするには至るところが未完成の状態でした。

極低温や高温での試験として、クルマを低温室や高温室に入れて走らせ、評価・チューニングすることはいつでも出来ます。しかし、疑似環境やコンピューターを使ったシミュレーションでの確認だけでは、実際のクルマの多種多様な路面状態や運転状態を網羅することはできません。

アイスバーン、雪道と一口でいってもその状況は様々です。さらに、それに加え実際の道路での登坂、降坂運転での確認は、冬に実地で行うしかないのです。結局、最後の最後は、北半球の夏の時期に冬を迎えるニュージーランドにクルマを持って行き、そこの高地で、気温が下がって雪が降るのを祈りながらチューニングと確認を行いました。

開発は販売後も続く

こうして開発を終えた初代プリウスは1997年の12月に発売を開始したのですが、すぐそのトラクション制御が問われる状況が東京と北海道で発生しました。

年が明けた1月の中旬、東京で何年かに一度の大雪が降り、その雪道でトラクションらしき制御が働き、他のクルマが動けなくなったのに、スリップを防ぎながら走れたとの報告と、その時に大きなショックが発生したとのお客様からの報告が我々の下に入ったのです。
インターネットの情報サイトでは、トラクション制御の隠しモードとも紹介されました。

一方北海道からはまた別の報告があり、これは普通のクルマのようにトラクション制御をカットさせるスイッチを付けて欲しいとの要望でした。従来のトラクションコントロール採用車では、雪道走行に慣れたドライバー用に制御キャンセルスイッチを付けていました。雪国のベテランドライバーにとっては、過剰制御で走りにくい、また雪道の轍からの脱出が難しいとの苦情もあったためです。

しかし、THSのトラクション制御の本来の狙いは、部品の保護が目的であり、キャンセルスイッチは採用できません。
その後は、キャンセルスイッチが無くても過剰制御にならないよう、また応答性良く駆動力を出せる電気モータと、さらにブレーキバイワイヤと電気モータによるパワーステアリング機能を協調させたS-VSC(Steering Assisting Vehicle Stability Control)へとそのトラクション制御を進化させ、ハイブリッド自動車ならではの走行安定性、操舵性を実現させることによってその返答とさせて頂きました。コンピューター上だけで、またきちっと整備され管理された路面のテストコースだけでは、実際のクルマの開発はできません。

自動車開発で大切なこととこれからの自動車産業

今回の解説とエピソードは、クルマの走る、曲がる、止まるに関わる新しいシステムを商品として世に送り出す時の、現地、現物、クルマの挙動としての確認が重要な例としてご紹介しました。

最近よくメディアの記事に、電気自動車であればコンピューター産業がそうなったように、汎用化した部品を組み立てることによって自動車メーカーでなくても簡単に自動車が作れるとの論調を目にします。また、このような意見の中には、このように参入障壁が下がることによって、大メーカーによって寡占化し硬直化した自動車産業が再活性化されることがメリットとして述べているものも多くあります。ですが、私はこのような意見に大いに疑問を抱いています

ここに書いた通り、商品として、世界中の様々な走行条件、環境条件、路面状態で、安心、安全にお使い頂けるクルマを作るのはそれほど簡単なことではありません。これは電気自動車であろうと、何も変わるものではありませんし、変えてはいけないものです。

ベンチャー企業等が夢を持って自動車産業に参入することは歓迎しますが、自動車を商品として販売するのにも最も重要な安心・安全の保証ができる設計評価技術や生産技術は簡単に得られるものではありません。そしてその部分で不安を覚えるクルマが、消費者の方々に広く浸透することなどないだろうとも思います。これは現状の自動車産業を擁護するという意図ではなく、新たに自動車産業に入ろうとする方々にはそのレベルに到達してほしいとのエールを含めた、私からの意見です。
また、今の自動車会社の設計評価や生産技術のエンジニアも、このクルマとしての最重要な基本部分に念には念をいれて取り組んで欲しいと思います、そしてそれこそがこの自動車産業を未来に続くものにするということを、肝に銘じて欲しいと願っています。