初代プリウス生産開始1ヶ月前 修羅場の不具合対策とコンプライアンス

フランス、パリで同時多発テロが発生し、多くの犠牲者がでました。パリに在住の友人の一人からは、Facebookで無事との連絡が入りましたが、フランスには知人も多く、ご本人、ご家族、関係者の無事をお祈りするばかりです。

このテロは、トルコで開催される「G20サミット」やウイーンで開催された「国際シリア支援グループ外相会議」にターゲットを当てたISによるもののようです。G20ではこれもパリで今月30日から開催されるCOP21、国連気候変動枠組み条約締結国会議で議論する、気候変動抑制の国際合意についての最終調整もテーマの一つでしたが、このテーマはテロにより吹っ飛んでしまいそうです。

1997年12月京都COP3で締結された京都議定書から18年経過し、COP21では当時よりもさらに顕在化してきた地球温暖化緩和への国際的な取り組み合意が期待されています。京都議定書のように批准国に削減義務を負わせる国際合意を目指す議長国フランスと、削減義務を負わない各国の自主的な削減取り組みでまとめようとするアメリカとで意見のギャップがあり、トルコG20でのその調整議論が予定されていましたが、多発テロでオランド大統領がサミットを欠席することになり、COP21にも暗雲が立ちこめてきました。

初代ハイブリッドプリウスと京都COP3

1995年12月のトヨタ役員会で、二年後の1997年12月に開催される京都COP3の時期に合わせ量産世界初ハイブリッド車プリウスの量産プロジェクトにゴーがかかりました。開発チームの当初量産目標提案は1999年末でしたが、まだ最初のハイブリッドプロトが走り出すこともできていない状態で、トップダウンによる2年早出しの号令です。社内技術陣には無謀なクレージープロジェクトとの声も上がっていました。開発ストーリーは様々な本で紹介されていますのでここでは省略しますが、今日のブログではその超短期プロジェクトの量産化寸前、1ヶ月前、丁度18年前の11月のトピックスを取り上げてみました。

199711月 生産・販売開始へのカウントダウンの最中で

1997年11月は、すでに、国土交通省(当時は運輸省)の新車販売認可が下り、10月10日に東京での新車発表、さらにそれに続く東京モーターショーでの展示が終わった段階です。従来車ならば、技術開発陣の役割はぐっと減り、車両系の人たちが車両工場の人たちとドアの立て付けや、組み付け部品類の干渉対策、異音対策など最後の詰めを行う時期です。しかし、プリウスではまだハイブリッド開発部隊は残存課題対策のまっただ中、ジャーナリスト試乗会など広報イベントにはは、暇ではありませんが実務担当ではない私などマネージメンバーで対応し、開発現場は未解決不具合の対策検討、まだ新たに報告される不具合の原因究明と対策に深夜まで走り回っていました。

もちろん、認可が下りた後の開発作業ですので、安全性能や環境性能など型式認定項目に拘わる不具合であれば、改めて設計変更申請が必要です。世界初の量産ハイブリッド車発売と新車発表をした後でしたが、万が一、安全走行に拘わる未知の不具合が見つかると、生産・、販売延期もまだあり得るタイミングでした。

トヨタではこの面でのコンプライアンスマネージは何重ものハードルがあり、技術開発部門、生産部門、品質管理部門と厳しいチェックが待ち構えています。しかし、ハードルが高くとも、もし不具合が残れば、その真因をいち早く究明し、再発させない本対策を見つけ出し、期間内に対策処置をやり遂げることができるかの判断を下すのは、車両主査とハイブリッドでは開発リーダーである私の役割でした。

ヒヤッとする不具合発生はこの期間も続いていました。原因が不明な、予期せぬ車両停止不具合もほんの僅かですがまだ残っていました。その一つが、11月の初旬長野を拠点に実施したジャーナリス試乗会で発生し、パニックを起こしかけたことも今となっては懐かしい思い出です。この原因は幸いにも、型式認定の届出項目には該当せず、簡単なソフト設計変更で生産開始までに対策を済ませることができました。

さらに、この時期、新規採用のモーター・発電機駆動用パワー半導体の焼損事故が発生、青ざめたこともあります。発生は1件だけでしたが、これが設計仕様としての不具合ならばマーケットで散発する恐れもあります。また、工程上の問題であっても、その工程上の問題とその焼損発生の真因を掴み、対策を実施し、その効果を確認しなくては、不具合が起こった以上、量産用としての使用はできません。この部品の生産工場からも、担当役員、部長、担当技術者に来てもらい、何度か対策作戦会議を行ったことも忘れがたい思い出です。このケースでは幸い、別々の二箇所からの調達部品で、一方の増産で乗り切り、この一社はしっかり対策を進めた上で次の年の生産拡大期からの採用となりました。

11月第3週は、河口湖のホテルでカーオブザイヤー選考会があり、内山田さん運転のプリウスで雨の中を会場に向かい、車中で残存課題の収め方の意見交換をした記憶があります。発売前のクルマでは異例のカーオブザイヤーを受賞しましたが、カウントダウン期となった立ち上がりまでの最後の詰めをどうやるかで気もそぞろで、前夜際で誰と何を話したのか、受賞式の記憶は殆ど残っていません。

京都COP3に使う事務連絡車や展示車のプリウスも、正式生産前に実施する生産ライントライ車の白ナンバー登録車が本格的に動きはじめたのもこの時期です。いよいよ12月10日生産開始にむけての最終カウントダウン、この段階ではCOP3に持ち込むクルマ、長野オリンピック聖火リレーの伴走車、試乗イベント車など開発評価のクルマ以外にも一般路で使われるプリウスが増加していきました。そのクルマからの不具合報告もあり、また冬の寒冷地試験は暫定試作車で1回しかやれていませんので、少し時期は早いでしたがこのライントライ車での北海道寒冷地試験、雪路走行試験を開始したのもこの時期です。こうしたイベント対応車や様々な試験走行での不具合報告もまだ続いていましたが、ほぼこれまでに掴んでいた不具合で、生産・販売延期につながりかねない不意打ちの新規不具合はありませんでした。しかし、念のため最後のスクリーニングを行うため、従来車ではやっていない工場完成車での全車スクリーニング走行を決めたのもこの頃でした。

こんな修羅場でのコンプライアンスマネージ

この段階では基本的には開発部隊の手は離れており、不具合が発生した時の処置は販売したクルマと同じ扱いとなり、工場車両検査部門、品質管理部門の管理下での原因調査、真因対策検討を行い対応アクションを決めます。認定届出事項かどうかは設計管理部門の判断により決めることになります。一つ一つの不具合の原因、対策処置レビューなど、社内の何重もの高いチェックハードルをクリアし、もちろんその後は安全走行に拘わる新たな重大不具合に遭遇することなく生産・販売開始に漕ぎ着けることができました。

もちろんスタッフ達の努力の賜ではありましたが、そうした努力を続けたことへのご褒美としての幸運としか思えません。今振り返っても、本当に生産・販売を止めなければいけない致命的な不具合が発生したときに、自分自身でそれを止める決断をし、車両主査や役員に提案していけたかの自信はありません。しかし、某社のスキャンダルのように、社内の仕組みとして隠し通すことは不可能であったことは、今でも断言できます。

当時トヨタの企業風土として悪いことこそ本当のところを早く上司に報告すべきとの先人の教えを繰り返し叩き込まれてきました。私自身も、ハイブリッド・リーダーの指名を受けた時に、ある役員から「このような超短期のビッグプロジェクトこそ、悪い状況は早くトップ役員まで挙げるように」と言われました。プロジェクトの重大な方針変更を行う場合にも、突然の報告では即断ができなくなるからとの説明でしたが、後で考えると、プロジェクトを止める時の決断を間違わず、プロジェクトを暴走させないようにとのアドバイスだったようです。これまた、幸いにも止める決断を上げることもなく、またマネージとしての暴走もさせないで1997年12月10日の生産・販売開始を迎えることができました。

某社のエミッションスキャンダルやこのところの日本大企業の不祥事を知るにつれ、企業風土・文化の重要性とその維持の難しさを痛感します。このスキャンダルを取り上げた以前のブログで、何度か「日本自動車企業トップもエンジニアも襟を正して」と述べました。企業倫理、トップ役員の倫理感が重要です。企業の存続意義としてのCSR(Corporate Social Responsibility)がガバナンスの基本、企業経営として収益はもちろん大切ですが、CSRから外れては存続が許されなくなります。トップが本当の意味でのCSR重視を訴え、実践し続けなければそのCSRに基づく企業風洞文化は継続できません。現役時代のトヨタには、CSRベースの企業風土・文化が開発部隊には根付いていました。トヨタを離れて10年、トヨタを含め、今の現役企業トップ、役員、マネージャー層に向けた「襟を正せ」のメッセージのつもりです。

パリCOP21と次世代低カーボン自動車のこれから

京都COP3から18年、厳戒態勢の中でパリCOP21を開催することがフランス政府から発表されました。この同時多発テロでやや関心が薄れていますが、テロへの取り組みとともに、地球温暖化への取り組みも人類としての大きな取り組み課題です。次世代低カーボン自動車への変革も、紛争の中心になっている中東、西アジア、アフリカ諸国など発展途上国や中国、インド、東南アジア諸国などを置き去りにした、先進国だけの転換では地球環境保全の効果も上がりません。この取り組みも、グローバルな視野でのCSR重視が求められます。日本勢は「襟を正し」、先進国以外の自動車マーケットを含めて低カーボン&クリーン自動車普及をリードして欲しいと願っています。

今週日曜(15日)の日経本誌13面、『日曜日に考える欄の科学技術ニッポンの歩みの』第5回として、ハイブリッド車プリウスの誕生が取り上げられています。私もインタビューを受け、マスキー法から1990年代初めのZEVからハイブリッドプリウスへの流れ、開発時のエピソードなどをお話しました。戦後70年の日本科学技術の歩みとしてハイブリッド車プリウス開発を取り上げていただけてことを担当したエンジニアの一人として嬉しく思っています。

京都COP3のタイミングに間に合わせようと悪戦苦闘し送りだしたトヨタプリウスに込めた次世代エコカーのメッセージは、トヨタハイブリッド車累計販売台数800万台を越えに結実しました。しかし、ハイブリッド車は低カーボン自動車への変革のほんの僅かの一歩、この記事の巻末にあるように、先頭ランナーで居続けようとしたら、技術者達は立ち止まっている余裕はありません。その全力疾走にも、常に人類社会への貢献を基本とする自動車産業界としてのCSR、その倫理感が重要であることは言うまでもありません。

電池はなまもの!」からハイブリッドタクシーまで

「電池はなまもの!」

以前のブログで、「電池はなまもの!」のタイトルの初代プリウス開発にあたってのハイブリッド電池を巡るエピソードを紹介しました。

2012年 1月26日: http://www.cordia.jp/wp/?m=201201

 

開発当初、電池は高温で放置しておいても、電池が空っぽに近い状態でちょっと無理をさせてもどんどん腐ってしまう(劣化)ので、乗っている人間さまよりも大事に使う必要があると脅かされていました。ハイブリッド開発リーダーとして最初に計画した出張が電池工場の視察、二番目が電池開発センターの視察と懇談でした。当時の電池工場はいわゆる3K職場、トヨタのエンジンや駆動部品を加工する機械場と比べても決して綺麗とは言い難い工場で、ハイブリッド電池の母体となる単1サイズの電気工具用のニッケル水素電池を生産していました。その電池を240個直列に繋いで、モーターによるパワーアシスト、減速回生を行うハイブリッドのコア中のコア部品電池パックとなります。240セルのうち1セルでも故障すれば、クルマがストップ、エンジンも掛けられず、路上故障モードとなってしまう重要部品です。

その電池が「なまもの!」、当たり外れがあると聞かされていました。さらに、ハイブリッド開発が佳境に入っても、なかなか量産スペックの電池はできあがらず、やっとできてきた試作電池すら不具合の多発、テストコースでクルマが止まってしまうなどは可愛いいもの、フェールセーフ制御が未完成の状態では電池パックから火を噴くトラブルさえ経験し「電池はなまもの!」を思い知らされました。

われわれクルマ屋の感覚では、故障率0.1%でも大問題、年産10万台のクルマでは100件の故障になってしまいます。セルあたりの不良率1ppm以下が必要と電池屋さんに申し入れると、目を白黒、それが本格的にハイブリッド車用電池開発のスタートでした。さらに、その上で電池の耐久寿命をどれくらい伸ばせるかの見極めがハイブリッド量産化を本当に進めて良いかを判断する大きなポイントでした。

電池もエンジンなみの耐久寿命が普及への必要条件

エンジンやトランスミッションなど、大物ユニットの保証期間は当時で5年5万キロ、しかしこの保証期間が過ぎてもオイル交換などのメンテナンスを怠わらなければ、ほぼクルマ一生の寿命を持つのが普通のクルマの常識です。10年越え、10万キロ越えで、ユニット交換が必要な故障が発生しても、不満の声は上がります。保証期間外の故障率が大きくなると、そのクルマ、そのメーカーの評判は下がってしまいます。ハイブリッド用モーターやインバートはもちろん、ハイブリッド電池もエンジンやトランスミッション同様、同じ機能を担う大物ユニットです。5年5万キロを越えると故障率が増加してしまうようでは、普通のクルマにはなりません。クルマの一生の間での交換が必要となると、中古車価格も大きく下がり、下取り価格の下落、リース残価の下落を招き、そのクルマの評判はガタ落ちとなり、マーケットからの退場を余儀なくされるケースさえあります。

せめて、10年10万キロ以上、クルマの残価がほぼゼロになり、故障してもほぼ寿命と納得していただけることが、寿命保障の一つの目安です。

工業製品のみならず、宇宙や、地球にも寿命があるように、万物には寿命があります。さらに機械部品に比べ、寿命予測、寿命設計は非常に難しい製品です。使用過程でケミカル反応を使うケミカル製品では、その反応雰囲気、反応条件により寿命に影響するストレスは大きく変わり、その繰り返しサイクルにより寿命品質は大きく変化します。

私は電池化学の素人ですが、自動車用触媒、排ガスセンサーを使ったシステム開発に永く従事してきましたので、その寿命保証の難しさはイヤとなるほど経験してきました。ハイブリッド用電池はその経験すら越えそうな代物が、最初の印象でした。

もちろん、電池材料製造プロセス、電池部品輸送・保管プロセス、製造プロセスから検査プロセス、電池パック組み立てから検査、保管、車両工場までの輸送プロセスに至るまで、徹底的な不良撲滅、品質向上活動をやってもらいました。さらに、人間さまよりもわがままな電池を、搭載も急遽変更し、パッセンジャー後席シートの後ろと一等席に変更、電池温度が上がれば電池アシスト量と回生量を絞り、過充電防止は当たり前、満充電までの十分なマージンを取って回生量を絞り、残量が少なくなると余裕を大きくとって出力制限をし、電池がちょっとでも悲鳴をあげると電池使用を切り離すエンジンのみの走行モードへの切り替えすらやりました。

しかし、この電池入出力性制限制御も、お客様の運転中に度々起こるようでは普通のクルマとは言えません。初代ではどうしても、電池からのアシスト出力制限を大きくとる必要があり、亀マークを点灯させる「ごめんなさい」モードを設定し、追い越しなどを控えていただかざるを得ませんでした。

「なまもの」から「工業製品」へ

それでも、「電池はなまもの!」のブログで述べたように、初代初期型プリウスでは、お客様にお渡ししたクルマで電池不具合を多発させてしまい、大変ご迷惑をお掛けしてしまいました。その改良品、単1型240個のセルを直列に接続した電池を搭載した初代初期型プリウスが走っているのを見かると今でのうれしくなります。

今ではクルマが15年以上使われるのは当たり前です。しかし「なまものの電池!」と自覚して、万全を尽くしたつもりでも、最後は清水の舞台から飛び降りる覚悟で送り出した初代プリウスです。

2年半後のマイナーで、円筒型セルから電極構造自体を抜本的に変更した角形セルへと大変更を行いました。さらにそのタイミングで、ハイブリッド用電池専用工場を建設、半導体工場とまではいきませんが、クリーンルーム化をするなど、「なまもの」から「工業製品」への転換を果たしました。さらに、電池パック冷却性能の向上や電池の使い方も見直し、加えてエンジンパワーアップにより、電池入出力を絞っても走行性能低下が少なくする改良を行い、また電池充放電の精密制御など電池の使い方の面からも寿命伸張に向けた改良を続けました。

この2000年マイナーチェンジでの電池大変更の狙いの一つが、カリフォルニア州のエコカー認定でした。規制値が世界で一番厳しいばかりではなく、エコカーと認定されるにはさらに15年15万マイル(24万キロ)のクリーン度保証が要求されました。初代初期型の円筒電池からたった2年半で角形へと大転換したのもプリウスの欧米販売、エコカーを標榜するからにはカリフォルニアのエコカー認定が不可欠との判断からです。新開発電池ですから、マーケットで実際に使った状態での耐久寿命データはありません。初代円筒電池の劣化解析、故障モード解析結果から角形電池開発へのフィードバック、電池セル、電池パックでの意地悪耐久、クルマでの耐久走行だけでは確信の持てるデータはでてきません。

カリフォルニア州の環境当局CARBとの保障期間を少しまけてもらう交渉もやりました。寿命劣化の傾向として長距離走行よりも、少ない走行距離でも長期間使われた方が厳しそうだとの単品耐久結果を説明し、保証期間15年を10年まで短縮してくれました。

それでも、「なまものの電池」の10年15万マイル保証の決断は二度目の清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要でした。初代プリウスでは、タクシー会社の宣伝用として少し使われてようですが、われわれとしては、タクシー使用は想定外、この2000年のマイナーチェンジでもほとんど考えていませんでした。意識し始めたのは2003年の二代目プリウスからでした。しかし、10年15万マイル保証がしっかりできるとすると、その先も急速に性能劣化を起こすわけではありません。結局この二代目プリウスから本格的なタクシー使用が始まりました。タクシーでは10年は使われることはありませんが、15万マイル以上の走行は当たり前です。それ以上の長距離走行なら電池途中交換もアリと考えていました。

想定外のタクシー使用、しかし想定以上の電池耐久寿命

これまで述べてきたように、タクシー使用は想定外、しかし二代目プリウスから日本のみならず、欧米、オーストラリアとプリウスタクシーが増加していきました。冷や冷やしながらも、その電池寿命に注目してきました。プリウスタクシーに乗り合わせると、ドライバーから話しを伺い、オドメータを見ながら、電池劣化の兆候である走行中にエンジン起動が頻繁に起きるようになっていないか気にしながら乗っていました。日本同様に、海外でも初期導入はタクシー会社のエコPR活動や政府、地方自治体のエコカー補助制度の後押しがあったようです。その後の増加には、これに加え、燃料費の削減、オイル交換やブレーキバッド交換頻度が少なくなるなど経済面でもメリットも大きいことも後押しとなったと言っていました。ディスカウントの押し込み販売を気にしていましたが、欧州の営業サイドからはそれはないと聞いてい安心したのもこのころです。

いまや、トヨタ&レクサスハイブリッド車の世界累計販売台数が800突破、さらに日本のみならず、世界中でプリウスタクシーが走り回っています。最近訪問した欧州の都市では、パリ、バルセロナ、ブリュッセル、ストラスブール、ストックホルム、など、プリウスタクシーの多さには驚かされます。(写真)

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タクシー用としての電池途中交換がどの程度かは不明ですが、インターネットでは、30万マイル無交換、50万キロ無交換走破のニュースも聞こえてきています。

クシー使用は想定外でしたが、劣化要因の解析を重ね、電池そのものの耐久寿命伸長への取り組み、「わがままでなまものだった電池」から「丈夫な工業製品へと育った電池」へと技術改良を積み重ねることにより、タクシー使用でも想定以上の電池寿命を確保できるまでに進化しています。

米国実施したクルマの長期間保有比率調査結果として、最初購入したオーナーで、そのクルマを10年以上愛用しているユーザー比率を調べたところ、プリウスがトップと僅差の第2位となり、28.5%のユーザーが10年以上使用し、15万マイル以上の走行を記録しているとのニュースが流れていました。

Oct 29, 2015 Green Car Report

トヨタ『プリウス』オーナーが、ある1車種を除き長期間クルマを保有

http://www.greencarreports.com/news/1100689_toyota-prius-owners-keep-cars-longer-than-any-other-model-but-one

このニュースも、タクシー使用だけではなく、個人使用としてもエンジンなど大物ユニット同様、ケミカル製品の電池を無交換と言っても良いレベルにまで進化していることの証明と、初代の開発段階から考えると隔世の感を覚えます。

しかし、電池は「工業製品」と云え、ケミカルプロダクツであることを忘れるな!

しかし、自動車用電池は「工業製品」に進化したとは云え、金属製品と比べると、寿命設計の難しいケミカルプロダクツ、電極での電気化学反応の繰り返しにより物性変化、性能劣化を起こす製品です。過充電、過放電、衝撃による電極変形、金属微粒子混入での微短など、故障モードもいろいろあります。その材料構成、製造工程、反応メカニズム、劣化メカニズム、故障モードを知らず自動車用としてブラックボックスで使える部品ではありません。また、熱暴走抑制や発火・発煙防止として制御だけでやれるわけではありません。ここまでの寿命伸長も、電池本体の耐久信頼性の向上、電池材料特性の向上だけではなく、電池特性を理解したうえでクルマとして使う側からのシステム企画、設計、制御改良の合わせ技でした。

プラグインハイブリッド、電気自動車はハイブリッドよりも電池依存度が大きく、電池寿命保障、信頼性品質保証はハイブリッド用以上に難しい要素があります。

ニッケル水素、リチウムイオン、電池化学特性は異なりますが、寿命保障、信頼性保証の考え方には大きな違いはありません。電池をブラックボックスにし、その制御も車両駆動システムと切り離した丸投げでは、普通のクルマレベルの寿命保障、信頼性品質の確保は困難です。このところの電気自動車ブーム、プラグインハイブリッド車ブームで、杞憂に終われば幸いですが、電池寿命保障、信頼性保証面での不具合発生を心配しています。しかし、この電池寿命保障のハードルを乗り越えなければ、普通の次世代エコカーにはなれません。

ハイブリッド仕様タクシー専用車

今日のテーマ、ハイブリッドタクシーでは、いよいよトヨタからハイブリッド仕様のタクシー専用車発売の発表がありました。まずは日本向け、LPGエンジンの右ハンドル車のみのようですが、欧米でもやや車高が高く客室スペース、荷室スペースが広いこうしたハイブリッドタクシー専用車のマーケットも大きく、従来タクシーと比較して大きなCO2削減効果も期待できます。このタクシー専用車の電池寿命もまた注目です。

二代目プリウス欧州カーオブザイヤー受賞

プリウス、ハイブリッド開発で様々な賞をいただき、その授賞式やフォーラム、環境イベント、広報宣伝イベントにも数えきらないほど出席しました。その中で、一番印象深いイベントは2005年1月17日スウェーデンのストックホルムで開催された“2005年欧州カーオブザイヤー受賞式”です。クルマとしての受賞式ですので、パワートレイン担当は本来は黒子、海外でのクルマ関係の受賞式にはそれまで出席はしませんでしたが、この欧州カーオブザイヤー受賞式だけは、自分で手を挙げストックホルムまで出かけて行き、受賞式に参加しました。

初代の開発エピソードは以前のブログでもお伝えしてきましたが、”21世紀に間に合いました”のキャッチフレーズで量産ハイブリッドとして脚光を浴びたスタートでした。しかし、当時の開発現場の実態としては京都COP3のタイミング1997年12月生産販売開始にやっとの思いで間に合わせたというのが正直なところです。なんとか、お客様にお渡しできるギリギリのレベル、このプリウスを初代初期型と呼んでいましたが、前後のバンパーに衝突時のダメージを防ぐ黒い防振ゴムが付いているのが特徴です。今でも、この黒い防振ゴムがついた初代初期型が走っているのを見かけると、そのけなげな走りに涙がでてくるほど嬉しくなります。

お買い上げいただき、愛用していただいたお客様には申し訳ありませんが、21世紀のグローバルスタンダードカーを目指したプリウスですが、あとで言われたように我慢のエコカーのレベルであったことは認めざるを得ません。このままでは欧米では通用しないと考えていました。生産販売開始前には、開発スタッフ達にほんの一服も与えられずに、次の改良プロジェクがスタートしていました。エンジン、ハイブリッドトランスミッション、その中に搭載する発電機、モーター、そのインバータ、さらに電池まで、普通なら2モデルは持たせなければいけないハイブリッド大物ユニットの全面変更まで決心していました。グローバル展開を図るには、ハイブリッド部品の品質もさらにレベルアップする必要がありました。これが2年半後の2000年5月のプリウスマイナーチェンジ、同時に欧米販売を開始した初代後期型プリウスのハイブリッドシステムです。この後期型プリウスでは、初期型の特徴だったバンパーの防振ゴムがなくなり、一体成形のバンパーとなりましたので一目でその違いが分かります。(写真1)写真1(初代プリウス)

この後期型プリウスも、海外でもいろいろな賞をいただきましたが、その中で残念な記憶は欧州カーオブザイヤーで次点となったことです。選考委員の採点表を見せて貰いましたが、将来のエコカーとして評価し、高い点数をつけてくれた方もおれらましたが、欧州では通用しないクルマとの酷評をいただきゼロをつけた方も複数おられ、このバラツキの大きさで次点に終わりました。私自身も、この後期型は欧州でこそ走る機会はありませんでしたが、士別のテストコース、国内の様々な道路での走行を行い、まだまだクルマ文化が根付き、ドイツアウトバーンがある欧州で評価されるレベルには達していないと思っていました。次点だったことが残念というより、シビアなコメントにも確かに納得するものがありました。次の2代目こそ、欧州の走行環境でも我慢のエコカーではなく、普通に流れにのり走れるハイブリッド車を目標とし、これまた開発スタッフ達は、休む間もなく2代目プリウス用の開発に取り組んでもらっている最中での次点の通知でした。

初代、その後期型までは、“21世紀に間に合いました”“量産世界初のハイブリッド”、“COP3に間に合わせよう””欧米でも使えるハイブリッド車”と、技術チャレンジの連続、その開発プロジェクトマネージは今思い返してもエキサイティング、無我夢中で過ぎたプロジェクトでした。車両チーフエンジニアの車両企画上のコスト目標も無視をし、とにかく世界初の商品を仕上げることに集中できました。

しかし、二代目からはそうはいきません。超トップのサポートは引き続き得られましたが、事務方からはそれまで使った巨額の開発費用や、設備投資の回収を迫られ、一方では、初期立ち上がりの品質不具合多発で従来車よりも多額の品質補償費を原価目標に積まされ、米国からはこのサブコンクラスで、当時の安いガソリン価格では売れる筈がないと酷評され、車両企画の元になる販売目標として1,000台/月を切る提示があったりと、二代目の車両企画、そしてハイブリッド企画も右往左往しました。

エンジン、ハイブリッドトランスミッションなど大物ユニットでは、コスト面からは1万台/月以上で生産ラインを計画することが最低ライン、欲を言うと2万台/月と言われていましたが、2代目プリウスでは1万台/月の企画さえあり得ないと言われ続けていました。それでは、まともな原価目標の立てようもありません。一時は、アルミボディーの限定生産燃費チャンピオン車で良いなどとの企画提案すらありました。21世紀のグローバルスタンダードどころの話しではありません。

技術部の中もアゲンストの嵐、そのなかでやっと立ち上げたのが二代目プリウスとそのハイブリッドシステムです。これまた、部品ベースでは、初代後期型からほぼ新設計での作り直しになりました。しかし初期型THSの大きな欠点の一つだった、エンジンのトルクアップ、パワーアップに対応するトルク容量アップ余地を増やすレイアウト変更まではやれませんでした。

二代目は、そんな中で欧米でも普通に走れるハイブリッド車を目指しましたが、振り返ると初代は無我夢中の技術チャレンジであっという間に過ぎ去っていきましたが、二代目の開発はそれ以外の苦労が多かった印象です。様々な制約、費用回収の要求からのコスト低減要求、さらに様々な外乱の中で、グローバルスタンダードの志しを下ろさず、知恵を絞り抜いて取り組んだ開発でした。

それだけ、いろいろあった2代目プリウスの開発でしたので、2005年欧州カーオブザイヤーの受賞はなにより感激した出来事でした。欧州販売開始は2003年末からでしたので、選考委員もしっかり欧州で走り込んだうえでの審査だったと思います。非常に高い得点で2005年カーオブザイヤーに選ばれました。

その選考委員の採点表欄をみると、初代後期型ではゼロ、もしくは非常に低い点数を付けた選考委員の方々が、この2代目プリウスには高い点をつけ、コメント欄に前回の低い点を付けたことが間違いで、ここまでの進化を見抜けなかったとのコメントが複数ありました。このコメントを読み、欧州でも評価してもらえるクルマにすることができと嬉しさがこみ上げてきました。これが自ら受賞式出席に手をあげ、寒い冬の観光にも不向きな1月中旬、ブリュッセルから一泊二日、トンボ帰りの受賞式でしたがストックホルムの受賞式に参加した背景です。

冒頭の選考委員会委員長Mr. Rey Huttonのスピーチの中で

「トヨタは(自動車としての)厳しい道を学んできた。カーオブザイヤーの審査委員は、2000年プリウスも候補としたが、その投票は割れていた。当時では、プリウスが将来のビーコンと見なした委員と、ハイブリッドのアイデアは見当違いと片づけた委員に分かれていた。新型プリウスは2000年には無かった大部分を持つようになった。今回は、32の候補車の中で、過去最高得点の一つ139点を獲得し、58人の審査員のうち39名がトップとした。」

などとこの受賞を紹介してくれました。

その後、当時の技術担当副社長がトロフィーを受け取るのを見守り、一緒に写真撮影を行い、多くの選考委員の方々と話しをすることができました。そのディナーで味わったワインは、それまでもその後も味わうことのあった有名シャトーのワインよりも美味しかったことが忘れられない思い出です。(写真2)

写真2(2005欧州カーオブザイヤー)

このブログを書きながら、はたと思い至ったことがあります。この欧州カーオブザイヤーの受賞式は2005年1月、これがひょっとすると今大騒ぎになっているVWスキャンダルの引き金の一つになったのではとの思いです。

プリウスハイブリッドが米国で、欧州で認知度が高まり、急激に販売を伸ばし始めたのもこの頃からです。講演会、フォーラムでの欧米エンジニアの態度、目線に変化を感じ始めたのもこの時期からのような気がします。特に、欧州のエンジニア、ジャーナリストは、審査員のコメント、委員長のスピーチにあったように2000年のモデルまでは、ハイブリッドを収益無視の広告宣伝用のシステム、欧州では通用しないとの意見が主流であったのに対し、この2003年二代目でその見方が変わったように思います。

当時は、欧州でも認知されたことを喜ぶばかりでしたが、そこまでインパクトを与えたとすると、それから10年、3代目から4代目をこの世界にサプライズを与えたインパクトを引き継げているか、次の機会には振り返ってみたいと思っています。

この二代目プリウスは、このブログのように、2005年欧州カーオブザイヤー受賞の他、北米カーオブザイヤーも受賞しました。しかし、本家本元日本ではカーオブザイヤーを逃してしまいました。日本のエンジニアである私にとっても残念なことでした。

二代目のハイブリッド開発は、様々な制約はありましたが、我々には我慢のエコカーから欧州(ドイツアウトバーンを除き)で普通に心配なく走れるエコカーの実現の目標にはブレはありませんでした。しかし、今振り返ると、社内では走りの良さをアピールポイントにしたいとの声が強すぎ、走り系のモータージャーナリストから、欧州車との対比で拒否反応があったことも原因かとも思っています。

今回の騒ぎで思い出したことが、あたりか、外れは判りませんが、時代を切り拓くつもりでやったことは確かです。フェアな土俵で、その次の時代にも安全・安心、自由に快適に移動そのものも楽しめるFuture Mobilityを巡る、世界自動車エンジニアのチャレンジを期待します。

プリウスの回生ブレーキ ーその2

本格回生協調ブレーキECB(電子制御ブレーキ)
一週空いてしまいましたが、引き続き、プリウスの回生ブレーキを巡る開発エピソードをお伝えしたいと思います。先回はカックンブレーキと言われてしまった回生協調ブレーキチューニングの顛末を取り上げました。回生量を増やすにはギリギリまで油圧ブレーキ作動への切り替えを遅らせ、回生制動割合を増やすだけではなく、回生の取り代を減らすこととなるブレーキ引きずりの低減にも従来車ブレーキ以上に厳しい目標設定をおいて取り組んでもらいました。このブレーキ屋さんや車両評価の人たちとの共同作業とその時の議論がその後のさまざまな進化に繋がりました。
まず、2000年のマイナーチェンジでカックン感の改善を行い、同時に回生・油圧の切り替え適合で燃費向上を果たしました。次の本格的な進化は2003年二代目プリウスに向け開発した本格ブレーキ・バイ・ワイヤ、文字通りの回生協調ブレーキと言える電子制御ブレーキECBです。中速域からの加速ならば、回生優先、このECBの採用で大幅な燃費向上を果たすことができました。図に初代と二代目での制動力に対する回生・油圧分担割合と、回生効率比較を示します。回生効率とは、空気抵抗やタイヤの転がり抵抗で回収できない減速エネルギーを除き、理論上回収できるエネルギーのどれくらいを実際に回収したかの比率としました。初代の10-15モードでは、38%程度だった回収効率が、二代目では倍近い72%程度にまで向上しています。
140605ブログ図表_ECB回生効率
アメリカ、欧州の最高速度が高く、減速度も10-15モードよりも大きな公式都市走行モードでも大幅な向上を果たしています。初代では強力な電池を搭載していてもエネルギー回生では十分にその容量を生かし切れなかったとも言えます。また、10-15モードぐらいの車速域と減速度なら、回生協調ブレーキを使わなくともアクセルペダルから足を離した状態のエンジンブレーキ相当の回生で十分との意見もありましたが、やってみるとそれでは不十分でした。特に実走行では公式モード通りの運転をしている訳ではありませんので、アクセル全閉、いわゆるエンジンブレーキ相当の減速度を強めると、無意識に車速を落としてしまい、車速維持のためにアクセルまた踏むといったオン/オフ運転を繰り返してしまうことがあります。こうしたオン/オフ運転では燃費を大きく悪化させてしまいます。この状態こそ、回生協調ECBの独断場、ブレーキで車速コントロールしながら広い領域でエネルギー回生を行うハイブリッドのポテンシャルの高さを感じたのも、初代から二代目のECB採用での開発でした。

Bレンジのエンブレの効き
また、初代ではBレンジに入れてもエンブレの効きが悪いとのお叱りもいただきました。今の設計指針、法規が当時からどう変わってきているのかわかりませんが、初代~二代目ではBレンジの減速度の上限として、長い下り坂などで電池が満充電状態でもエンジン空転で消費できる発電量としました。どんな状態でもエンブレ状態の制動力を変化させないことを指針としたため、Bレンジで電池満充電では、エンジンの許容最高回転数での空転が上限です。このため、満充電となるとエンジン回転数を発電機でつり上げて高めていました。初代ではこのエンジン許容最高回転数も熱効率を高めるため4,000回転/秒と低く設定していましたので、これが上限、このためBレンジでもDレンジとさほど差がつかない減速度しか使えなかったというのがその顛末です。エンジン最高回転数を2000年のマイナーで少しあげ、2003年二代目で5,000回転/秒まで上げた理由が、エンジン最高出力を高める他にこのBレンジでのエンブレの効きを良くしようとの狙いがありました。
エンジンでは、アイドル運転時の発生トルクが駆動トルクの下限、微妙な駆動力コントロールはできません。この点、モーターは出力側から、回生制動力までリニアにさらに精密に駆動/制動力を制御できます、初代ではこのポテンシャルを使い切れませんでしたが、スキッドコントロール、トラクション、オートクルーズなど駆動/制動力をリニアに精密に制御することのポテンシャルの高さを感じたのも、ブレーキ屋、車両屋、エンジン屋、駆動屋と共同開発作業、チューニング作業をおこなった初代~二代目の開発での思い出です。
まだまだ、電気駆動/回生制動のポテンシャルを突き詰めきれてはいなとの感じながら、開発エンジニアをリタイアしました。その後の進化が少ないことが気掛かりです。

プリウスの前身、G21プロジェクトとその次のG30活動

G21という符牒は、このブログの読者、またプリウス本をお読みのかた、トヨタの関係者や私の講演をお聞きの方なら記憶されているかもしれません。石油資源、地球温暖化問題が騒がれはじめた1992年ごろ、世界ではハイブリッド車プリウスの開発につながるいくつかの動きがありました

世の中では、地球温暖化を筆頭とする環境問題の深刻化が顕在化、この地球環境問題を議論する国連主催の第1回世界環境サミットがリオ(ブラジル)で開催されたのが1992年6月です。持続可能な開発、サステーナブルデベロプメントがキーワードでした。一方、米国カリフォルニアではロススモッグ解決のため、究極の自動車環境規制、LEV/ZEVを議論していた時期です。排気ガスを出さない自動車ZEV(ゼロエミッション自動車)の販売義務付けが議論されていました。

21世紀を間近にし、ちょうどトヨタの将来ビジョンが社内の各部署で議論されている最中でした。1993年春にこの議論をもとにまとめられた中長期ビジョンのタイトルが『調和ある成長:Harmonious Growth』 、その中核の一つが持続可能な自動車を目指すことを宣言した『トヨタ地球環境憲章』です。この中長期ビジョン、その中核となる地球環境宣言に沿い、トップからその実現に向かう業務改革、組織改革、さらに具体化のためのアクションが社内各部門への宿題として示されました。

 

ハイブリッド普及プロジェクト「G30」

われわれ技術開発部門が、この宿題としてスタートさせた研究プロジェクトの一つが、この社内コードG21、持続可能な自動車社会への一歩となるグローバル・セダンの探索プロジェクトです。1993年秋に少人数でスタートしたG21が周囲のあれよあれよとの間にハイブリッドを搭載するプリウスとなり、“21世紀に間に合いました”のキャッチコピーで1997年12月に発売を開始しました。この経緯は、いろいろなプリウス本に紹介されている通りです。

それから16年、昨年末にそのトヨタハイブリッド車累計販売台数が600万台を突破、持続可能な自動車への大きな一歩を踏み出すことができました。今日の話題は、このG21から今日の600万台への道のりの中にあったもう一つのマイルストーンG30を紹介したいと思います。

このG30は社内だけで通用するプロジェクトコードですが、当時ではプリウスにつながる車両開発プロジェクトのコードではありません。量産のスタートを切ったハイブリッド車の普及をめざすシナリオ策定と、それに対応する開発企画、車両企画、開発体制を提案する活動です。

初代の発売から2年半、モーター、発電機、電池、ハイブリッドシステム部品のほとんどを作り替えるシステムとしての大改良を行い、欧米での発売をスタートさせたのが2000年マイナーチェンジプロジェクトでした。そんな時期、これもトップ役員からハイブリッド車普及として次ぎは2005年30万台/年のシナリオ策定とその具体化プラン提案を指示されました。このシナリオ策定とその開発体制の仕組みを作り上げるのがG30 プロジェクトの役割でした。

プリウスのモデルチェンジ、さらにエスティマ、クラウンとそれぞれプリウスとは機構が違うハイブリッド開発をやりながら、普及戦略をたて具体化するのもお前の役割と事務リーダーを仰せつかりました。G21もプリウス本にあるようにとんでもない超短期開発、社内でもクレージー扱いもされましたが、技術を見極め、チャレンジし、安全に関わる品質に抜けがないようスタッフ一丸で必死に取り組んだ先にゴールがありました。

 

利益を出せるハイブリッドに

開発マネージャー、ビッグプロジェクトのリーダーだからといって、技術開発だけに集中していれば良いわけではありません。しかし、このG30はG21のようにハイブリッドの量産化に集中すれば良い話ではありませんでした。G21はあっという間でしたが、その最中は無我夢中で産みの苦しみのプロジェクト、そこから何度かとりあげたマーケットでの品質向上への取り組みで育ての苦しみも味わいましたが、このG30は世間の冷たい風にも当たりながらハイブリッドを大きく成長させるきっかけとなるステップでした。

当然ながら、まずは収益問題、欧米メーカートップが言った一台ごと、札束を付けて売っているとの状況からは脱出していましたが、初代、マイナーチェンジまでに使った先行開発投資、設備投資の回収まで入れた収益計画の具体化を求められたのもこのG30です。このプロセスでもいろいろなことを学びました。普及拡大には、先行投資分の回収を進めながら、さらに先の開発に投入する原資を確保していく必要があります。ハイブリッド車を増やすにはハイブリッド採用車種の拡大が必要、さらに開発要員の確保、人材育成、開発設備の増強などなどの手当も同時にやる必要がありました。一車種あたりの生産台数が増やせれば、コスト的には楽になりますが、営業部門がそれほど楽観的な台数を提示することはありません。当時、現在進行形だったまだまだ不良発生のおおかったマーケット不具合も、この高い不良率で算定した故障対策費が次ぎのコスト目標に上乗せさせられます。生産予定台数を多くすればするほどコストが下がる訳ではありませんが、少なすぎては開発投資分、設備投資分の回収分が積み上がり、台当たりのコスト増がどんどん大きくなってしまいます。

さらに、営業サイドからはハイブリッド分のコスト増に対し、厳しい販価査定が提示されました。そのギャップを埋めるのがコスト低減活動ですが、知恵を絞り、汗を流してギリギリ届きそうなチャレンジ目標を決めていくのもG30活動の重要部分でした。

普及に伴いハイブリッドにも様々な軋轢が生じてきた

途中経過をパスしてG30活動の顛末を述べると、2005年の30万台/年販売の目標達成はできませんでした。クラウンで採用したマイルドハイブリッドはもちろん、今はポピュラーになってきているアイドルストップまでハイブリッドの範疇に入れて達成シナリオを検討しましたがさすがにそのシナリオは取り下げました。当時、ハイブリッド路線と収益性に疑問を投げ抱えるような、コンペティターやメディアからの弾丸、矢もいっぱい飛んできていましたが、後ろからの弾丸、矢も降ってきたのがこのG30活動でした。

この活動をやりとげたから今の600万台があると思っています。遮二無二、勢いをつけたからやり遂げることができたと信じています。後ろからの弾丸や矢も、前に進むスピードを上げれば勢いが弱まり、さらに時代を切り拓くのは自分達と信じて開発に取り組んでいたスタッフ達の熱気もこれをはじき返す力になったと今になり懐かしく振り返っています。

結局は、G30活動で作り上げたシナリオではなく、この熱意ある開発スタッフ達が取り組んだ、次のプリウス、ハリアーハイブリッド、そしてアクアと続く、ハイブリッド車がこのシナリオを飛び越して、600万台へと発展させた原動力となりました。このG30とそのときの後ろからの弾丸や矢が降ってきた話は自分の墓石の中まで持ち込むつもりでいましたが、バブル崩壊からやっと次の成長へと舵をきった日本再生、アベノミクスの具体化はきれい事だけでは済みません。人間ドラマ、アゲンストであった当時の振り返りも必要と思いました。今が日本再生の21世紀全般の最後のチャンス、このチャンスを失した先に次のチャンスが巡ってくるかは解りません。このチャンスの後ろ髪を追っかけることにならないよう、このG30で学んだ教訓をお伝えしていきたいと思っています。乞うご期待ください。

レジェンド葛西選手の銀メダル、スキージャンプとプリウスの思い出

葛西選手の銀メダルに感動

7度目の冬季オリンピックを41才で迎えた葛西選手が、ラージヒルジャンプでついに宣言通りの個人のメダルを獲得しました。わずかの差の銀は少し残念ですが、まさに有言実行、ジャンプ競技のどころかトップアスリートとしてのレジェンドと言ってもいいでしょう。

見ての通り、一つ間違えば大きな怪我を負いかねない競技を30年以上、それも世界の一線級として続けてきたことには敬服以外のなにものでもありません。私自身、札幌で生まれ育ち、実家から札幌オリンピックのラージヒルジャンプ台、大倉シャンツェまで歩いて30分、小さいころはそのままスキーで飛ばすと10分たらずで家までたどりつくことができました。

小学生の冬の遊びはまずジャンプ、近くの丘にスコップで雪を積み上げた小さなジャンプ台を仲間と作りその台を飛ぶところがスタート、徐々に大きな台に移っていき、その最後がラージヒルジャンプ台になります。隣の家のお兄さんが複合のオリンピック選手、近所から世界選手権、オリンピックで活躍したジャンプ選手がでるような地域です。

私自身、彼らと同じように小学生の低学年からジャンプをやり始めましたが、20メータクラスで頭から突っ込む大転倒をしてジャンプが怖くなり飛べなくなってしまい、その先には進めませんでした。とはいえ、近くの大倉シャンツェへは、度々ジャンプ競技会を見にいきました。

容易に想像がつくとは思いますがやはり危険な競技で、常に救急車が待機しており、風に煽られ転倒して救急車で運ばれる選手を何度も見ました。高校生の時、競技の整備を手伝わされ、大倉シャンツェ踏切台(カンテ部)の下から普通のスキーで滑り降りたことがありますが、その急斜度のランディングバーンを滑り降りるだけで足がすくむ恐怖の体験でした

プリウスの冬道テストコースはジャンプ場巡り

前置きが長くなってしまいましたが、今日のブログはレジェンド葛西選手とプリウスにあわせたタイトルにしましたが、プリウスをジャンプ台から飛ばせる話でも、またプリウスをレジェンドと図々しく対抗しようとする話でもありません。

札幌の中心街から西に見える大倉シャンツェは、中心部のテレビ塔から約6.5キロ、ちょっとした坂道を上がって競技場までむかう雪道はクルマの格好の試乗コースです。その周辺の住宅地は、私が暮らしていた当時からすっかり変わってしまいましたが、土地勘はある地域で、北海道に行くたびにプリウスの試乗コースとして走り回っていました。

ノーマルヒルジャンプ台の宮ノ森シャンツェにも近く、そこから市民スキー場がある藻岩山山麓へ抜けていく山道の登り降りもまた良い試乗コースです。今ではジャンプ台付近まで住宅地が広がっており、冬の雪道では4WDがほしくなる地域ですがFF、FRの2輪駆動車も使われています。プリウスがそのような走行環境でどうかを自分で試してみたくなり、何度かその周辺を走り回りました。

トヨタには北海道士別市の郊外に大きなテストコースがあり、寒冷地試験、整備された雪道の走行路もいろいろありますが、私自身は開発スタッフたちに頼んでもっぱら一般路の試乗ツアーでチューニング状況や問題点の説明を受けながら確認させてもらっていました。

初代プリウスでは、北海道の販売店からトラクション制御が効き過ぎて雪道のでこぼこにはまると脱出できないとの指摘があり、その確認や改良の相談が冬の試乗をやるようになったきっかけです。

時間がなかなかとれないので、スタッフたちにわがままを言い千歳空港や旭川空港まで試乗するプリウスで迎えにきてもらい、そこで合流。大抵は一泊二日で雪道を走り回り、スタッフたちと開発状況や試験状況の話も聞き、夜は海鮮料理とビールで懇親を深める冬の楽しみな出張でした。

こういった試乗も先輩たちに叩き込まれたトヨタウェイの現地、現物、現車主義、テストコースだけではなく、生活道路のクルマの使い方をお客様の目線で確認する方針を貫かせてもらいました。

もちろん、私自身は開発エンジニアであり、クルマ評価のプロではありません。我々の試乗と併せて、クルマ評価のプロの目で、現地、現物、現車での評価をしっかりやってもらい、このような機会にシステム制御スタッフと一緒に評価状況、課題を聞かせてもらう企画です。

試乗コースとして、大倉シャンツェ、宮ノ森シャンツェ周辺とともに、ロングツアーでは、札幌オリンピックアルペンの会場である手稲山、小樽の住宅地にある天狗山周辺、小樽から札幌郊外の定山渓に抜ける途中にある札幌国際スキー場、旭川拠点では旭岳の麓、勇駒別、十勝岳を望む美瑛、富良野から狩勝峠を抜け新得と、どういう訳かスキー場巡りといったコースが多かった印象です。

冬道からS-VSCが生まれた

もちろん業務出張ですからスキーをやったことは一度もありませんが、スキー場への登り、その下りは、絶好の試乗コースです。こうした試乗の中で、ハイブリッドシステムが担う駆動力のトラクションコントロールと回生制動とブレーキの協調制御の確認を通して、二代目プリウスに採用することになったS-VSC(Steering-Assisting Vehicle Stability Control)の開発につながっていきました。

低燃費、低カーボンで夏も、冬も安心、安全に、またストレスを感ずることなく運転そのものも楽しめるクルマをめざし続けてきました。初代、二代目、三代目プリウスと少しはこの目標に近づいていると思いますが、まだまだクルマとしてのレジェンドには程遠いと思い続けてきました。

次なる四代目は、エコ金メダルは当たり前、エコの看板を外したところでクルマの基本性能、その魅力を高めてくれると、これまで350万人のお客様の後押しもいただいてクルマとしてのレジェンドに一歩でも近づくことを期待しています。

2000年マイナーチェンジでのビッグチェンジ

今日は2000年5月に発売を開始した初代プリウスのマイナーチェンジのエピソードをご紹介します。車両としてはマイナーチェンジ、外形デザインに大きな変更はなく、初代初期型についていた車両前後バンパーの防振ゴム、通称カツブシがなくなり、これで見分けることができます。いまでもこの黒いカツブシバンパーの初代初期型プリウスとマイナーモデルを見かけるとその健気さと、大切に使っていただいているお客様への感謝で胸一杯になります。

1997年12月、なんとか『21世紀に間に合いました』とのキャッチコピーで国内販売に漕ぎ着けることができましたが、正直言ってすぐに欧米導入をする自信はありませんでした。米国、欧州での販売スタートはこの2000年のマイナーチェンジからでした。初代の発売時にもトップや広報サイドから欧米導入を検討するようにとの話がありましたが、国内で経験を積み、それをフィードバックするためにマイナーまで見送ってもらいました。
しかしこの合間をついたホンダの初代インサイトに北米初の量産ハイブリッド車の座を明け渡してしまったことは今も癪の種ですが、こうした新技術一番のり競争が技術進化を加速させることも確かです。

マイナーチェンジ

実質的にはフルモデルチェンジだった2000年マイナーチェンジ

北米、北欧の氷点下40℃からアリゾナ、ネバダの50℃近い気温、コロラド州コロラドスプリングスから登っていく標高4301メートルのパイクスピークは特別としても、デンバー付近では標高2500mを超える峠道はざらで、加えて通常の小型車でも時速150キロ程度で流れているドイツアウトバーン走行で危険を感じないで走るには力不足であることは明らかでした。アウトバーンももちろん平たん路だけではありません。時速150キロで流れる3%を超える坂道もあります。それすら世界の走行環境からはほんの一部、その普及への次のマイルストーンとしたのが、北米、欧州導入を目指すこのマイナーチェンジでした。

さらに信頼性、耐久性品質の確保には万全を期したつもりですが、クルマからハイブリッド、その構成部品のエンジンまですべて新規開発、これまで作ったこともない部品のオンパレードです。17年たった後に開き直ると新技術、新システム、新部品に故障はつきもの、路上故障で走れなくなるとお客様へとんでもないご迷惑をおかけしてしまいます。国内海外を問わずお客様にご迷惑をおかけすることには変わりはありませんが、国内ならば故障時の処置をスピードアップさせ、御免なさいで乗り切ろうと覚悟を決めました。

これも以前のブログで紹介しましたが、初代発売と同時にシステム開発評価のスタッフ達が、故障修理支援、原因究明、対策の特別チームを結成し、24時間以内の処置完了、不具合再発ゼロを合言葉に国内販売店からの連絡に即応し飛び回ってくれました。初期不具合の多発で多くのお客様にご迷惑をおかけしましたが、その後のスピーディーな対応でご迷惑をおかけしたお客様からも声援の声をいただき、日本ユーザーの暖かさをしみじみ感じた二年間でした。

欧米で通用する基本性能の確保と日本での経験、信頼性品質向上への取り組みのフィードバック、欧米のクルマの使い方を想定した設計見直しが必要と判断しました。クルマはマイナーチェンジですが、モーター、発電機、インバータ、電池などハイブリッド構成部品の90%以上をすべて作り直すハイブリッドシステムとしてはほぼフルモデルチェンジ規模の大変更を行ったのがこの2000年のマイナーチェンジです。

生産販売を行っている初代プリウスの少なくはない不具合調査と修理支援、さらに不具合原因の対策とその効果の確認をやりながら、同時にシステムとしてのビッグチェンジを行う作業を同じスタッフ達にやってもらいました。初代と同様の超短期、息のつけない、これもまた誰も過去に経験したことのない苦しい開発だった筈です。多くの専門スタッフがいたわけではありません。初代プリウス開発の途中から加わった若手が戦力になり、初代をやり遂げたスタッフ達とこれまた少数精鋭、やり遂げたことが、さらにその先の二代目プリウス、ハリアーハイブリッド、エスティマへとトヨタ・ハイブリッド・システム(THS)が発展していきました。その意味でも、このマイナーチェンジがそれからのTHS拡大のエポックであったように思います。

白紙で見なおしたフェールセーフ制御

この、マイナーでのビッグチェンジで今のTHSの発展につながる、ハイブリッドシステム制御系変更のトピックスをいくつか紹介したいと思います。

その一つが、システム故障時にクルマを安全に退避させ、他の部品への不具合の波及を防ぐ、フェールセーフ制御の見直しです。エンジンと電気モーターを使い分けて走らせるのがハイブリッドです。走る、止まる、曲がる、クルマの基本機能を動かすエネルギー、電力をマネージするのがハイブリッド制御系、マイナーでこれを全く白紙から作り直す作業を行いました。

この基本部分が、フェールセーフ系の再構築と故障診断判定制御です。初代の立ち上がりでは、ハイブリッドシステム故障、部品故障を検出し、それぞれのコンピューターから故障信号が送られてくると、エネルギー、駆動力、電力供給を止めるシステムシャットダウンを基本としていました。制動力、操舵力維持の最低限の電力供給を行い、惰行で回避してもらいクルマを止めるやりかたです。

走行駆動力、制動力、操舵力を保障できない故障の最後の手段がシステムダウンです。開発段階でトンネルを出た直後のシャットダウンで生きた心地がしなかったとのスタッフからの報告も受けていました。車線の多い道路の右折待機中のシャットダウンなどなど、走行中のシステムシャットダウン制御が決して安心、安全なやりかたではないことはもちろん判っていました。しかし、当初は正常、故障判定をしっかり行って残りの走行機能でできる限りの退避走行をさせるだけのシステム設計の詰めまではできず、電池が使える時のモーター走行以外はシャットダウンを基本とせざるを得ませんでした。

エンジン、電気モーターの二系統の駆動源を持つのがハイブリッドですので、故障判定さえしっかりやれれば故障していていない動力源を使って退避走行させる機能は従来車以上にやれます。しかし、故障か正常か、仮に正常と判定したとしてもどこまでそれを使って良いか、その判定は簡単ではありません。飛行機は二重系が原則、場合によっては三重系での多数決で判定することも重要部分ではやっていると聞かされました。

二重系ではどちらが正常かの判定はできません。また三重系や故障検出センサーを増やしては、部品点数を増やし複雑にした分、故障確率が増え信頼性はかえって低下してしまいかねません。さらに自動車ではそこまでのコストを掛けた設計では実用化は難しくなってしまうことも開発屋の本音です。初代は止む無く、最後の歯止めがシャットダウンでした。

ハイブリッドではサービスの見直しが必要だった

マイナーでは、このシャットダウン制御の根本からの見直しを行いました。様々な故障モードでクルマの挙動としてどうなるか、その挙動と退避走行制御への切り替えでドライバーのパニック操作を引き起こしてしまわないか、制御プログラムだけの変更と疑似信号でのシミュレーション実験やデバッギングで済ませる訳にはいきません。構成部品一点一点の故障モード解析とクルマでの挙動解析とその確認実験、エンジンやトランスミッション、モーター設計スタッフ達、それぞれの制御設計スタッフ達とのデザインレビューの繰り返し、殴り合いまではいかないまでもその故障判定条件、設計判定条件のレビューでは喧々諤々の論争と、実際のクルマを使った故障再現とその確認の繰り返し作業でした。

この作業を通し作り上げたのが、その後のTHSの基本となる、故障診断、フェールセーフ制御系です。車両、システム挙動からの故障判定、部品信号モニターからの故障判定、さらにこのシステムレビューとクルマ、システム、部品レベルまでの正常挙動、異常挙動分析と故障診断を行い、このマイナーチェンジからシステム故障時もすぐにシャットダウンではなく、駆動力を出せるかぎりは走らせる方式へと切り替えていくことができました。

このシステム挙動分析、確認試験の繰り返しにより作り上げたもう一つの機能が、故障修理、整備の時に使う故障診断、修理サービスツール、システムの構築です。初代の立ち上がりに故障修理支援の特別活動を行った理由の一つが、この新しいハイブリッドシステムの修理書、サービスツール開発まで手が回らず、さらに販売店サービスマンの故障診断、修理トレーニングも十分に行えなかったこともあります。欧米展開を見送った理由の一つもこの故障診断、サービスツールの整備をやってからとの判断がありました。

初代立ち上がりでは、販売店トップから販売店での修理、サービスが難しいとのお叱りもいただきましたが、何とか特別活動チームの頑張りと、こうした特別チームの支援により乗り切りました。マイナーでの故障現象の判定ばかりではなく、故障部位、故障部品まで特定する新しい故障診断システムを整備し、さらに日本だけではなく、欧米拠点でのサービスマントレーニングも充実させたことが、振り返るとTHS発展のもう一つのターニングポイントだったと思います。

このブログを書いている最中に三代目プリウスのモーター制御系リコールのニュースが飛び込んできました。非常に残念なことですが、初代、マイナー、二代目、三代目とここで取り上げたシステム制御の信頼性、品質向上に取り組んだ蓄積がまだまだ有る筈、190万台ものお客様にご迷惑をおかけしてしまったことを肝に銘じ、迅速、確実な対応を進めてくれるものと信じています。

プリウスのある最初の正月 16年前の年末・年始

さすがに道で初代プリウスの初期型を見かけることは少なくなってきました。この初期型を我々は「カツブシ」と呼んでおり、前後のバンパーの黒い防振ゴムで初期型と2000年マイナー後を見分けることができます。

初期型の生産が豊田市にある高岡工場で始まったのが1997年の年の瀬の迫った12月10日、その年にお客様にお渡しできたのはわずか300台程度だったと記憶しています。発売とともにその年のカーオブザイヤーなど、自動車関係の賞を総なめにし、新聞、雑誌、TVと大きく取り上げられていましたので、街を走っていても注目の的でした。

生産を開始しディーラーで販売が開始しても、われわれ開発チームの仕事がそれで終わりではありません。ほっとするまもなく、チーフエンジニアやハイブリッド開発リーダーだった我々は様々なイベント対応や取材対応に追われ、そのころにはすでにマーケットでの不具合対策支援特別チームが動きだしていました。

通常のクルマなら、販売前にしっかりと修理書を作成し、サービスツールを用意し、新機構、新技術が使われる場合には事前に販売店のサービスマンに集まってもらい時間をとり説明と修理トレーニングを行っています。しかし今だから明かせる話ですが、プリウスではその修理書を充分吟味する時間もなく、サービスツールも開発中のハンディー版のみで、その不具合診断ソフトも十分ではありませんでした。

最初のプリウス不具合対策は聖火リレー伴走車

立ち上がりには万全を期したつもりですが、開き直った言い方とはなりますが新機構・新技術がてんこ盛りのクルマで、不具合が起こることも想定の内として覚悟していました。それに備えて、ハイブリッドシステムの品質、信頼性監査のリーダーが、自分がチーフになり販売店サービスを支援とその対策チームによる特別活動をする提案してくれました。不具合報告を受けた販売店に出向き、サービスマンを支援しその対策処置をし、次にその不具合が起こらないように設計、製造段階への早い改善フィードバックを行うことがそのチームの役割です。

チームの初動は、実は12月10日~に販売を開始したクルマではなく、その前の量産トライのクルマを白ナンバー登録したイベント対応車でした。このプリウス量産トライ車が次の年に開催された長野オリンピック聖火リレーの伴走車として使われていましたが、このクルマで起きた不具合が最初だったと記憶しています。オリンピック聖火の伴走車ですので、きわめて低速の走行が継続し、そうした走り方の中で連続走行後のあるタイミングでいわゆる“ビックリマーク”を点灯し止まってしまう不具合です。これを解決したのも彼らのチームでした。

その伴走車の走り方から不具合発生までのシーケンスをヒアリングし、その走行パターンを自分たちの試験車で何度も何度もトライをし、システム制御チームからヒアリングをしながら原因を突き止めていく作業です。この原因もこの走行パターンでしかおこらないバグ、偶然に近い確率で起きる問題がほとんどで、突き止めるまでが大変です。

そこまで突き止めれば不具合対策は簡単です。これが年末年始を迎えての特別活動のトライとなり、また品質保証部隊、サービス支援部隊との連携、さらに、設計、生産、調達チームとのコミュニケーションネットワークもこうしたトライ、その各部隊へのフィードバックで太くなっていったように思います。

プリウスの不具合報告で幕を開けた1998年

本格的な活動は、その年末休暇入り前日の26日から30日までは休日出勤で、その後の大晦日から4日までは販売店の休みに合わせお休みのつもりでしたが、すぐその初日からの出動となってしまいました。

プリウスにハイブリッド部品を納入している大阪の会社が買われたクルマが納車後すぐに“ビックリマーク”点灯で動かなくなってしまったとの連絡です。Dレンジで走り始めようとしたら数センチ下がりそこで止まってしまったとの報告に、青ざめたことを覚えています。

チームメンバー3人がプリウスに乗り、すぐに大阪に出張し、販売店サービスと一緒に調査しました。サービス用ツールを使い吸い上げた故障時情報と、チームメンバーのシステム制御設計スタッフと共同で突き止めた不具合原因がモーター制御用コンピュータ不良でした。

このコンピュータを生産していたのがトヨタの広瀬工場で、すでに郷里へ帰省していた工場検査の責任者に会社に戻ってもらいました。休日出勤で検査ラインを動かし、大阪から持ち帰ったコンピュータを検査してクルマでおこした不具合が再現することを確認してもらいました。さらに、その不具合がモーター制御に使っている回転数と前後進判定をおこなっているセンサー信号を受ける海外製ICを構成しているトランジスター1個の製造不良であることまで、その日には突き止めていました。

全国の販売店サービスへの事例紹介と修理方法の連絡、連休明けにそのICの受け入れ検査の強化、コンピュータ検査ラインでの不具合落としプロセス追加など、戦略をまとめて大晦日と正月を迎えました。はらはら、ひやひやしながらの年末、年始でしたが、元旦にはプリウスのモニター車で京都の八坂神社に初詣に行き、ハイブリッドの発展を祈り、いつにない額のお賽銭をはずんだことを思い出します。

結局この不具合は、連休明けのアクションが功を奏し、このクルマとすでに配車していた数台のクルマで喰いとめることができました。

年始休暇明けには関東地区に大雪が降りました。初代プリウスでは、雪道や凍結路でタイヤがスリップすると、トランスミッションのギアが破損するモードがあるとのことで、トラクション制御に似たスリップ防止制御を入れていました。

これまた言い訳ですが、冬の確認とチューニングが不十分で、とてもトラクション制御と言える代物ではなく、場合によっては大きなショックが発生しましたが、これがまた怪我の功名、時ならぬ東京の大雪でこのトラクションもどき制御が結構スリップ防止に役立ったとのことを後で聞かされました。

この制御は、その後2000年マイナーチェンジでの改良、2003年の二代目プリウスの電動パワステ、回生協調ブレーキと連携してモーター制御を行うS-VSC(Steering-assisting vehicle stability control:横滑り防止システム)へと発展していきました。

現場が支えたプリウスの立ち上げ

この特別チームの活動は1998年秋まで続き、その後も特別との名称はなくなりましたが2000年マイナーチェンジでの欧米展開、さらにこれまでのサービス支援活動の経験を生かし2003年の二代目でさらに故障診断方式、診断ツール、修理マニュアルの大改訂へと繋がっていきました。このような活動が、昨年に累計500万台を超えたトヨタハイブリッドの発展を支えてきたと信じています。

一時、トヨタの安全品質問題での大転倒でプリウスのハイブリッド制御も疑われました。この安全・信頼性品質への初代からの取り組みが踏襲されていれば、疑いは晴れると信じていましたが、一抹の不安はぬぐえませんでした。しかし結果はご存知の通りで、米国運輸省、宇宙航空局NASAなど制御系の専門家が綿密な調査を行い、制御系には問題なしとの判定が下り、われわれのやり方は正しかったとホッとしました。

現場を見なければ良いクルマは作れない

このブログでも、現地、現物、現車の現場主義がトヨタウェイの基本と述べてきました。この現物主義は何も、トヨタ社内の開発現場、生産現場、サービス現場だけに限定したものではありません。

今日のブログで紹介した、海外製IC不具合では、このICを取り扱った商社スタッフの方々が飛び廻り、時間をおかず、試験装置を追加して輸入品の受け入れ検査を強化してくれました。海外調達部品の製造会社が倒産しかかり、その梃入れと欠品がでないように動きまわったのも、日本商社の方々とトヨタ調達スタッフです。ここも立派な現場です。

このような活動をしっかりマネージするマネージ現場、それをフォローし承認する役員そうの経営現場、このすべてを現場と呼んでいます。このさまざまな現場のコミュニケーションがとれたから、あのハイブリッド・プリウスは立ち上がれたと思っています。

最近クルマのプラットホーム統一化がエスカレートし、大規模モジュール化がブームになってきています。その対比として、ハイブリッドがその典型として擦り合わせ型の開発、現場主義は時代遅れなどと言われていますが、この扱いには大いに違和感を覚えています。

自動車メーカーの設計評価エンジニアが大規模Tier1メーカーに開発を丸投げしデスクワークエンジニアになってしまっては、ここでご紹介した活動はできません。今回ご紹介したICチップまでとは言いませんが、クルマの安全機能、商品機能にかかわる部品、構成システムを知らずして、ブラックボックス化しては良いクルマの開発はできません。

車両チーフエンジニアを中心に、各機能、各部品会社が共同でマーケット、クルマの使い方、使われ方に隅の隅まで目配りするトヨタの、また日本勢のクルマ作りはいかに大規模モジュールが避けられないにせよ、大切にしてほしいアドバンテージと思います。

20世紀の車より3倍の燃費の車へ

これまでに出版されたプリウスの本の多くでは、燃費2倍をめざしハイブリッドシステムの探索を行い、ハイブリッドシステムがプリウスに搭載したと書かれています。しかし、8月のブログでは、ハイブリッドスタディーチームが当時の技術部門トップであった和田明広副社長のところに、燃費向上目標2倍を提案したところ3倍を目標にしろと指示され、目を白黒させながら探索作業をスタートしたことを紹介しました。

そこでは、どのようなハイブリッドシステムを持ってきても、また車両諸元をいじっても3倍達成のメニューは見つけ出すことができず、ガソリンエンジンベースでは2倍強が限界との結論となり、その結果を恐る恐る和田副社長のところに報告に行ったところ、あっさりとその燃費2倍目標で進めようと言われ、拍子抜けしたと当時のスタッフの話を紹介しました。

今回はこの後日談をご紹介したいと思います。

開発中は「燃費の先祖返り」を繰り返したプリウス

この時提出された燃費2倍強の検討結果の中身も、エンジンの燃費マップは実測値ではあったものの、モーター・発電機の効率やそれを動かすパワーユニットの効率は、鉛筆をなめたとても実用では実現できそうもない高い効率をベースとしていました。量産開発目標として少しマージンを持って燃費2倍とするはずが、実のところはそのマージンを吐き出しても燃費2倍の目標にはほど遠い状態からの開発スタートです。

最初のプロトの試験では当時の公式燃費試験モードの10-15モードでリッター20キロを切るレベルで、その結果に愕然として車両チーフエンジニアの内山田さんをリーダー、私がサブリーダーとして燃費2倍特別タスクフォースチームを結成し、車両、エンジン、ハイブリッドシステム、回生ブレーキなどいたるところの燃費向上メニューを洗い出し、それぞれの目標達成と新たない燃費向上メニューを発掘する業務をスタートさせました。

開発の段階では少しずつの改良でやっとリッター24キロ…25キロ…と積み上げた燃費が、開発が進みあらたな試作車ができるたびに、一気にまた20キロ台まで低下し「燃費の先祖返り」とタスクフォースチームスタッフが恨めしそうに言っていたことを思い出します。

その後も紆余曲折があり、やっとたどり着いた認定試験結果がリッター28キロ、これがカタログ燃費となり、当初はカローラAT車の燃費15キロの倍、30キロが社内目標でしたが、比較車をカリーナに変更し燃費2倍と発表したのが初代プリウスの燃費2倍の顛末になります。

初代はこうして今だから告白できますが自分たちでも「苦しい」と言わざるを得ない言い訳が必要でしたが、二代目では車体をカリーナ相当にサイズアップしながらも10-15モード燃費35.5キロ、三代目ではさらにグローバルコンパクトとしてサイズアップしたうえで10-15モード燃費38.0キロと、初代から36%の燃費向上を果たし、燃費2倍は胸を張って言えるようになりました。

見えてきた燃費3倍

さてここからは、18年前を振り返って初代プリウスの車両企画と今の技術で燃費3倍の達成が可能か、考えてみたいと思います。初代プリウスと三代目プリウスの車両サイズを比較すると、見た目でもお分かりのようにグローバルコンパクトサイズとしてかなり大きくなっています。

初代プリウスでは「アウトサイドミニマム、インサイドマキシマム」をコンセプトとし、室内空間の広さを訴求点としました。とはいえ、インサイドミニマムの初代プリウスに比べて実はアクアのほうが、少し車室内スペースが大きくなっています。(初代プリウス [車室長]1850㎜*[車室幅]1400㎜*[車室高]1250㎜ [車室容積]3.24立法メートル、アクア [車室長]2015㎜*[車室幅]1395㎜*[車室高]1175㎜ 車室[車室容積]3.30立法メートル)

車両全長は、初代プリウス 4275㎜に対しアクア3995㎜と少し短くなっていますが、ホイルベースはどちらも2550㎜。当初の計画をベースに、このサイズのクルマで燃費3倍の可能性を検証してみたいと思います。

なお、アクアの10-15モード燃費はリッター40キロ、1997年時点のカローラAT比較でもカリーナ比較でもまだ3倍には届いていませんが、かなり接近してきています。

この燃費向上の経緯は、エンジン熱効率の向上、モーター・発電機とそれを動かすパワーユニットの効率向上、さらに回生協調ブレーキによる回生効率の向上、電池の内部抵抗低減など充放電効率の向上、様々な回転引き摺り損失の低減、さらに車両重量も初代プリウスの1240㎏に対し、アクアの1050kgとその軽量化などありとあらゆる部分の地道な効率向上と損失の低減です。

初代プリウスではハイブリッド化による重量増が150㎏程度ありましたが、その後のモーター・発電機の高回転化と高電圧駆動、パワーユニットやハイブリッド電池のコンパクト化、軽量化などによりハイブリッドとしても80㎏程度の軽量化を実現していますので、これと車両軽量化で1050㎏に抑えたと言えると思います。これらが、燃費リッター40キロ実現の道のりです。

1990年台半ばからみて燃費3倍はあと一歩のところに来ています。トヨタOBとして、新型アコードや新型フィットにハイブリッドの効率・燃費で抜かれたのはやはり苦い思いが去来しますが、それでも一自動車エンジニア、一自動車ファンとしてはライバルの登場の歓びの方が大きくあります。

アコード、フィットの燃費向上メニューを見ても、しっかりとプリウス、アクアをベンチマークし、抜くための技術メニューを積み上げてきたというのが伝わってきます。知財権やコストなどを含め「やれるやれない」は別として、このホンダの高効率のエンジンおよびハイブリッド技術をトヨタの持つハイブリッド技術を融合させた「いいとこ取り」をやるとさらに燃費を向上させることが出来るのは間違いありません。

内部抵抗が小さく充放電効率の高い軽量コンパクトなリチウムイオン電池の採用や、最高効率39%と抜かれてしまったエンジン最高熱効率を抜き返し、ガソリン初の40%以上を目指すこと、トランスミッション内の引き摺り損失を減らし回生効率を高めること、車両軽量化もBMW i3のような車両骨格にカーボンファイバー採用までいかなくともまだ余地があり、このメニューを加えていくと初代プリウス以上の車室スペース、ラゲージスペースのクルマで燃費3倍達成が視野に入ってくるように思います。

低燃費技術を拡げることが大事

エンジン最高熱効率の推移

図はガソリンエンジンの最高熱効率の年代での推移になります。初代プリウス用ハイブリッドの探索スタディーを行った時の、量産ガソリンエンジンの最高熱効率は32%程度で、アトキンソン高膨張比サイクルと低フリクション技術を手一杯織り込んだ初代プリウス用エンジンで35.2%、三代目プリウス用エンジンが38.5%、今年の新型フィットのエンジンがホンダの公表値として39%強となり、いよいよ40%越えが次のターゲットとなってきています。こうして40%を超えて42~43%が見えてくると、エンジンの教科書では熱効率が高い特徴を持つ説明されている自動車用小型ディーゼルエンジンの最高効率に肩を並べることになります。

因みに私が燃費3倍の実現が気になり始めたのは最近のことです。電気自動車が今のクルマに代替していける見通しがつかず、さらに日本では3.11以降の電力の火力発電シフトによりプラグイン自動車CO2削減は期待が出来なくなりました。さらに、中国を筆頭に新興国のモータリゼーションが急激に進み、この国々ではさらに石炭火力の比率が高く、電気自動車へのシフトはCO2削減も、大気汚染防止でも逆効果、ハイブリッドを筆頭とする低燃費車の普及を急ぐことがCO2排出削減の切り札となります。

この日本の低燃費技術をできるだけ早く現地化し、グローバルなCO2削減に貢献していくことが日本の自動車エンジニアの責務と考えるからです。もちろん、コスト低減も新興国マーケットでは欠かせません。

自動車CO2削減の実効をあげるには、燃費2倍どころか燃費3倍、次は4倍(4倍のメニューは私の頭には描けず、次の世代に委ねますが)へと技術進化へチャレンジし、それを世界に広めていくことです。

これこそ、日本の自動車エンジニアに期待したいところです。少し前に触れましたが、ゴーンさんは何を勘違いしたのか、中国での電気自動車普及を叫び、日本、欧州では電気自動車が普及していかないのは充電インフラ不足と責任転嫁をしています。地球環境保全、大気汚染改善が自動車変革の目的であり、電気で走行させることが目的ではありません。中国を初めアジアの新興国では今後も電力のCO2量は高いままという予測もあり、そうした国々では電気自動車は必ずしも環境に優しくはありません。ただし、国・地域によっては大きく環境負荷を低減出来る所もあり、そうした中で最適なモビリティを、健全な競争の中で提供されるようにしていくことが理想なのは間違いないでしょう。

確実なCO2削減を進めていこう

先月23日まで、ポーランドの首都ワルシャワで開催されていた気候変動枠組み条約第19回締約国会議(COP19、ワルシャワ会議)のメインテーマは、2020年をスタートとする、全世界としての温暖化ガス排出削減への取り組み枠組について合意の方向を探ることでした。2015年までに、先進国、途上国すべてが参加し温暖化ガス削減に取り組むとの合意で閉幕しましたが、合意内容としては国際条約としての強制力のある『約束』『義務』という言葉のない、自主的な『貢献』というあいまいな合意となってしまいました。

日本は温暖化ガス削減目標として、このCOP19で鳩山政権時代の2009年COP15で掲げた2020年までに1990年比25%削減の大胆な目標を撤回し、2005年比3.8%削減、1990年比では3.1%増の提案を行い、途上国だけではなく、先進国の一部や参加していたNGOからの袋叩きにあってしまいました。これが、脱原発としたときの今の日本の不都合な真実で、一部の環境NGOが叫んでいる「脱原発の上で25%削減死守」などどうすれば実現できるのか私には想像することも不可能な未来です。

日本のハイブリッド車は、まだまだ自世界の自動車保有台数の1%にも届いていませんが、確実にクルマのCO2削減に貢献しています。このハイブリッドが牽引する低燃費車の普及により、日本、アメリカとガソリン消費量そのものもピークを打ち減少に向かい始めています。日本の技術で、新興国への低燃費車普及を加速させることも、日本国内だけでのCO2削減量を補いグローバルなCO2削減に貢献できます。これで、国内削減目標をまけてくれとは言えませんが、日本として責務の一端は負えると思います。

もちろん、8月のブログでも述べたように、グローバルCO2の削減で実効を上げるには実走行燃費の向上が必要です。公平に同一条件で燃費ポテンシャルを比較する試験法が公式燃費モード、その公式試験モードの結果がカタログ燃費です。このカタログ燃費で評価できない、低温時ヒーター運転、高温多湿時のエアコン運転、高速、登降坂など実走行の様々な走行での燃費向上にも目配りしていくことにより実走行燃費もカタログ燃費の向上率に近づいていきます。

どこまで迫っていくのか、これからのハイブリッド車燃費競争激化を楽しみにしています。

ITS世界会議とプリウス

「ITS世界会議 東京2013」が開催されました

先週18日、東京お台場のビッグサイトで開催されたITS世界会議併設の展示会に行ってみました。最終日のせいか、アベノミクスの余波か、はたまた元気回復の自動車業界が温度をとっている大会のせいか、最近のスマートグリッド、エコ技術の大会・展示会に比べると活気を感じました。

このイベントを取り上げたTVや新聞はもっぱら「自動運転実用化近し」との報道に終始していました。しかし、展示会場を駆け足で回った印象ではまだ「どこまで人で、どこまで自動運転か」ということを法律の扱い・PL問題をふまえて慎重な説明も多く、それの到来はまだまだ先と少し安心をしました。

安心した理由としては、もし一気に自立型の全自動運転を目指すとすると、個人の自由で最もパワフルな乗り物であるモビリティをドライバーから切り離すことになり、根っからのフリーモビリティ派である私から運転する楽しみを奪うことになってしまうことをほんの少し心配したからです。この全自動自動車では、外形デザイン、内装を除くとまさにコモディティ化への道、フリーモビリティを否定する方向でもあることの心配です。

ハイブリッド開発のボスがITSのボスに

今週のタイトル、「ITS世界会議とプリウス」はあまり脈絡がなさそうですが、大いに関係があり、その関係をこのブログでは取り上げたいと思います。少し今日の本題から脱線しましたが、このフリーモビリティと将来としてハイブリッド車プリウスの開発に取り組んだ仲間であり、われわれハイブリッド開発チームを役員として監督したボスがこの「ITS世界会議東京2013の日本組織委員会委員長のITS Japan会長の渡邉浩之さんです。我々は「ナベさん」と呼んでいました。

「1997年12月京都COP3のタイミングに併せてハイブリッド専用車プリウスの量産を開始する」とトップが決めたのが、その期日へ残り2年となっていた1995年12月でした。まだ、テストコースどころか構内道路もまともに走ることができない状態での決定に、社内技術部門の同僚部長蓮からクレージープロジェクト、その近くには近づきなくないとの声も聞こえてきているなか、晴天の霹靂、ハイブリッド開発リーダが私に回ってきたのが翌年の3月、すでに残り22ヶ月を切る段階でした。

あるラインからは陰に陽に、このプロジェクトを止めるのはあんた、駄目と見極めたら被害が広がらないうちに止める提案をあげてくれと言われていました。

富士の裾野にあるトヨタの研究所から、豊田市の本社におかれたハイブリッド開発チームに加わったものの、プロト車の試乗どころか、あんたに説明をする時間もないからと資料一式を渡され、久しぶりの自習でハイブリッド機構の勉強をやりながら、もし止めざるをえないとしたらどのような状況になったときか、どのタイミングが被害を少なく止められるか、その止める想定まで考えた1997年12月までの日程計画を作り上げること、その上で開発作業の安全作業を願いすることがリーダとしての最初の仕事でした。

もちろん、開発を推進し軌道に乗せることがリーダの責務ですから、止めるシナリオは私の頭の中だけに留めていた話です。

さまざまな開発チームが検討を進める試作車が増えるにつれ、毎日のようにテストコースで「クルマが止まった」「電池から煙を吹いた」「まともに試験ができないので何とかして欲しい」など不具合報告が殺到し始めたのが1996年5月~7月にかけてのことです。この不具合調査とその対策を進める人材も不足しており、人集めをお願いしながら、少しハイブリッド機構の勉強が頭に入ったところで、開発体制をどう立て直すか、頭をかすめ始めた止め方、止め時のアクションシナリオなど切羽つまった状況に陥っていました。この時の事情は、2011年7月のブログ“非常事態宣言”に詳しく述べています。

緊急事態宣言
緊急事態宣言

ここで述べた“非常事態宣言書”の檄文をつくり、私なりのアクションプランを作って最初にぶつかっていった役員が、1996年6月に新任の役員として、われわれハイブリッド開発特別チーム、ハイブリッドのコア部品である電気駆動部品を開発するEV(電気自動車)開発部を担当することになった渡邉浩之さん――「ナベさん」です。

「ナベさん」との「こだま会議」で情報共有

これ以外にも二つの部を担当しており、ただでさえ多忙を極める新任役員にじっくりと状況を聞いてもらう時間をとることは困難でした。しかし、できるだけ早く危機感を共有していただき、他の役員、他の部署との連携強化と人員補充、組織強化を行なわないと手遅れになります。もし万一止める決断をしなければいけなくなった場合にも、役員との状況判断の共有化が不可欠です。

そこで、秘書にスケジュールを聞き出してとった手段が、豊田の本社から東富士研究所への出張の新幹線車内会議です。研究所までは三河安城から三島までの「こだま」を利用します、当時も今も「こだま」のグリーン車はガラガラでほぼわれわれの独占状態で、1時間強の「こだま」会議室で状況をご説明し、有事対応を相談し、賛同いただいたことが、このプロジェクト立て直しのきっかけでした。「こだま」会議では足りないところは、研究所までのクルマ会議、そこから三島にある自宅にもよらず豊田へのトンボ返りも、今振り返ると良い思い出です。

最優先で週1回の、情報共有化と車両主査、車両担当役員を交えた情報共有とプロジェクトマネージの戦略会議をセットしてもらい、これが生産開始まで欠かさず続けられました。節目節目では、このメンバーで夜間に試作車に仮ナンバーをつけ、現地、現物、現車での確認試走を行い、これも状況共有化として機能しました。

共に抱いた未来のパーソナルモビリティ

「ナベさん」は役員御就任前にはクラウンの車両主査をされていた方ですので、クルマの試走はお手の物で、カーブの多い山道を選んだ試走コースのブッ飛ばし振りにはビックリさせられたものです。そこでハイブリッド車の将来、クルマの将来について話をしたのが、パーソナルモビリティとしてのクルマの未来です。

エコだけでは不十分、エコは当然でその上で魅力あるパーソナルモビリティへと進化させようとの共通の想いが2代目、3代目へとハイブリッド進化への取り組みの原点だったように思います。幸いにも「ナベさん」にこのプロジェクトを止める相談をすることなく、1997年12月の生産開始、販売開始を迎えることができました。

その後も「ナベさん」を囲むハイブリッドOB会や、クルマの未来を語る会など、主に呑む機会でご一緒していますが、次は大盛況だったITS世界会議とそこで盛り上がっていた自動車の全自動運転の未来、パーソナルビリティの未来など、美味しいワインを呑みながら自動車の夢についての共有化を進める約束をいただいています。